小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

児童精神科

2008-05-25 03:36:51 | 医学・病気
精神療法について。
精神療法というと、何か特別な神秘的な治療法のように聞こえるが、全然、そんなものではない。単に患者の悩みを聞いたり、アドバイスしたり、要するに、患者との対話を精神療法といっているだけである。
私は二年の研修の後、ある民間の精神病院に就職した。ここの病院をモデルにして、「精神科医物語」というのを、書いて、ホームページに載せてあるので、よかったら読んで下さると嬉しいです。
外来もやった。私の外来の日に、ある週一回の非常勤のベテラン精神科医が来た。児童精神医学が専門で、大学で彼の受け持ち患者を、ここの病院に紹介してここで診ていた。彼は知識が豊富で、人気があって、大入り満員だった。患者は、みな児童だから、もちろん親が連れてくるのである。カーテン一枚、隔てた隣で診ているので、彼の声が、全部、聞こえてくる。聞いていて、いちいち、もっともだ、と思った。少しの間違いも、スキもない。ああ、名医だな、患者に人気があるのももっともだな、と最初の内は、感心して聞いていた。しかし、だんだん彼の診療に、疑問を持つようになってきた。彼の診療は、当然、子供の病気の説明や親への子供の対応の仕方の説明である。知識がある事も、加わって、一人の患者に非常に時間をかけて説明する。親も、時間をかけて、いいアドバイスをしてくれる氏の診療に実に嬉しそうである。しかし、あれも、これも、すべて知っている事を説明し、親はニコニコ笑っているだけである。児童精神科の場合、親が子供にどう対応するか、という事が、大切になってくるので、つまりは親が子供の主治医にならなくてはならない。氏の診療では、親は病院で説明を受けている時、心地よい言葉のシャワーを浴びて満足しているようなものだが、さて、家に帰った時、何をすべきか、わからなくなってしまうのではないだろうか。大切な事は、親を主体性を持った子供の主治医にする、という事だ。あれも、これも、全て説明しては、焦点が定まらなくなってしまう。また、医者が名医だと、親は名医にかかっているという安心感から、自分の主体性がなくなりかねない。
私は、児童精神科では、あれもこれも、全て説明することより、たった一つでも、親が子になすべき事を、強く訴える事だと思う。親の主体性を強く確立させる事の方が大切だと思う。親は親で、自分の考えで子供を育てようとしている。思いやりから発して、間違った事を言ってしまう場合もあるだろう。だが、基本の心が愛情なら、それも、そんなに悪い影響を与える事はないと思う。うつ病患者に、「頑張れ」の言葉が禁句のように、絶対、はずしてはならない原則は、きちんと教えるべきだが、基本は、親の主体性を確立させることであると思う。名医にかかっている、という事で安心し、診療では、心地よい言葉のシャワーを浴び、家に帰って、はて、何をすべきなのだろう、と首をかしげるようにしてしまっては、よくない。どうして人をロボットにして、人から自分で、ものを考える楽しみを奪おうとするのだろうか。

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摂食障害について

2008-05-25 03:20:57 | 医学・病気
今日一日だけ生きる。
Jast for a day
「今日一日だけ生きる」という戦術がある。ひとまず、明日からの事は考えないのである。これは、アルコール中毒、摂食障害、重症のうつ病、など全て、限界の苦しみで生きているつらい病気の患者で使える戦術である。
アルコール中毒の人で、酒をやめたいけど、やめられない、という人は、
「よし。明日から酒をやめよう。そのかわり、今日で酒とお別れだから、今日は、とことん飲もう」
と考えて、今日、飲んでしまうのである。それで、明日になったら、また、同じ事を考えて、飲んでしまうのである。それで、結局、その考え方で、何年も酒を飲みつづけるのである。
摂食障害の人もこれと同じ考えにおちいっている人が多い。つまり、
「明日からはもう、食べない。そのかわり、今日は、最後だから、うんと食べよう」
で、やけ食いしてしまうのである。それで翌日から無茶なダイエットをはじめ、数日後ついに耐え切れなくなって、また、その考えで、食べてしまうのである。
ものの考え方だが、これを逆転させるのである。つまり、
「明日からは、うんと思う存分、酒を飲んでやろう。そのかわり、今日一日だけは、飲まないようにしよう」
と、考えるのである。この考え方に切り替える事ができれば、結果として、その患者は病気に勝つ事が出来る。しかし、言葉で言うは易いが、簡単に出来るものではない。こう達観するには宗教的心境まで無くては出来ない。また、これも、根底から、考えを変えようとしても、ずっとつづけられるものではない。理想を高く持ちすぎると、挫折した時の、落ち込みが大きい。そういう考え方も、あるんだな、程度で一回でも実行してみるのがいいと思う。一回でも、やってみるか、やらないかは、大違いである。

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常識を疑う

2008-05-25 03:18:24 | 医学・病気
妄想に対する説明。
統合失調症の患者の妄想は、どんなに時間をかけて、丁寧に説明しても、説得することは不可能である。統合失調症の患者の妄想を、説得するのは、ちょうど、目前にあるリンゴを指して、これはバナナです、と説得するようなものだからである。あるいは男の患者に、「あなたは女です」と、説得するようなものである。こんな事を言われて、「ああ。そうですか」などと、納得する人間など、いようはずがない。
患者の妄想に対しては、「それは、あなたにとっては現実です」という説明から入る。
そのあと、どう説明するか。私がよく使う手は、「常識を疑う」よう、進めるのである。そして、これは、何ら間違いではなく、事実なのである。昔は、「地球は丸い」と言おうものなら、人から、頭のおかしい人間と笑われた。それが昔の常識だったからだ。しかし、今、「地球は無限の平面である」などと、言ったら、人から笑われる。「天動説」、「地動説」も同じである。患者に、そういう風に説明しても、それで納得したり、多少なりとも自分に疑問を持ったりする患者はいない。徒労である。しかし、無駄骨であっても私は、言うだけのこうとは言う。
現代でも、科学において常識とされている事で間違っている事は、無数にある。
科学の研究は、大きくわけて、二つある。一つは、新発見である。今までにないものの発見である。しかし、もう一つある。それは、常識とされていたものの、くつがえし研究である。常識を真実と考えることほど、危険な事はない。
芥川龍之介も、「侏儒の言葉」で、上手い格言を書いている。
「危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である」
(芥川龍之介「侏儒の言葉」より)

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皮膚を鍛える

2008-05-18 22:44:19 | 医学・病気
皮膚を鍛える。
私は水泳が出来るので、たまにプールに行く事がある。しかし、色々と、いそがしく、なかなか行く時間がない。そして泳ぐとしても、プールで、海では、ほとんど泳がない。プールで泳ぐのも、面倒がっているようなので、海では、なおさらである。しかし、海に行くと、つい大海原を水平線のはてまで泳ぎたくなる。ある時、海で泳いだら、過敏性腸の鈍痛が、スッとなくなったことがあった。これは、おそらく海水の刺激がよかったのだと思う。プールでは、持久力の訓練にはなるが。誰でも、歯科治療のような痛みを伴う時、体のどこかをつねることは、よくある。本命の痛みを、別の痛みによって、そっちの方に逃がそうとしているのだ。そういう原理が働いたのだと思う。それと、もう一つ、柔肌に海水の刺激が加わった事も、よかったのだと思う。過敏性腸では、腸の神経ばかりに気が行ってしまうが、柔肌では、ますます腸の神経が過敏になってしまう。
私は小学校二年の時、喘息の施設で、毎日、腕が赤くなるまで乾布摩擦をやらされたが、当時は、その意味がわからず、嫌々やっていたので、今では、もっと気を入れてちゃんとやっておけばよかったと後悔している。皮膚を鍛えると、外部の皮膚は、気管支や腸管につながっているから、呼吸器や消化器を鍛える効果があるのだ。

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結跏趺坐

2008-05-18 22:40:16 | 医学・病気
結跏趺坐
結跏趺坐について書いておこうと思う。結跏趺坐とは、日本の座禅の足の組み方である。多くの人は、座禅は組めないのではないかと思う。あるいは、組めても数分で足が痛くなって出来なくなってしまうのではないか、と思う。私自身、そうだったからだ。私は体の関節が非常に柔らかいので、子供の時から座禅は組めた。しかし、数分で痛くなって、長くはつづけられなかった。しかしである。ある機会に、座禅を組むことになった。二人の人が、結跏趺坐を長時間組んでいるので、私も、彼らに対抗する気持ちで、足が痛くなっても、つづけて組んでいた。そしたら、痛くなくなってきたのである。それ以来、私は、神経がまいると、よく結跏趺坐をしている。私は、一時間でも二時間でも、結跏趺坐が組めるのである。そして、これはノイローゼになった時、非常に、有効なのである。結跏趺坐を組むと、頭の雑念が消えるのである。正座とか、胡坐ではダメである。雑念は消えない。結跏趺坐でなくてはならないのである。なぜ、結跏趺坐を組むと雑念が消えるのか、その原理は、わからない。結跏趺坐は、長い歴史があるから、その原理を書いたものもあると思う。素人考えでは、結跏趺坐が、自分の行動を拘束してしまう事に、それと関係があるように思う。結跏趺坐を組むと組みはじめの方の足首が激しく伸ばされる。これが、人体のつぼを刺激しているのかもしれない。また、伸ばされた足首の刺激が頭の雑念を消しているのかもしれない。正座や、胡坐では、いつでも自分の意志でやめてしまう事が簡単に出来る。結跏趺坐でも、自分の意志で、解く事は出来る。しかし、結跏趺坐は一度、組んだら正座や胡坐よりは、はるかに拘束性が強い。これは、神経がまいった時、確実に雑念から開放されるので、よくやる事である。他のノイローゼの人も、体が硬いから、などと、最初から決めつけずに、やってみる事をお勧めしたい。訓練によって、出来るようになる可能性はあると思う。

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対人恐怖症対策

2008-05-18 22:37:04 | 医学・病気
対人恐怖症対策
対人恐怖症について、その対策を書いておこうと思う。私自身、対人恐怖症に、相当、悩まされた。自殺した漫画家の山田花子さんも、対人恐怖症に悩まされた。対人恐怖症にも、色々なものがあるが、ここでは、最悪な、視線恐怖症について述べたいと思う。視線恐怖症で悩んでいる人は、極めて少ないと思う。百人に一人もいないと思う。ので、あまり書く価値はない。しかし、視線恐怖症で、悩んでいる人にとっては、生き地獄にも等しい。私自身、内向的な人間なので、やはり、やはり内向的な人間が好きである。仲間意識が起こるからである。内向的な人間で、すぐに思いつくのは、本田信一さん、池見酉次郎先生、山田花子さん、などである。やはり皆、対人恐怖症で悩んだ。
視線恐怖症とは、人と視線が合ってしまう悩みである。山田花子さんは、そのため、出かける時は、サングラスをしていたほどである。視線恐怖症は、逆の立場になってみれば、容易にわかる。誰だって、人からジロジロ見られたら不快である。ジロジロでなくても、一瞬でも、人と視線が合うと、気まずいものである。しかし、社会生活をする以上、人の顔を見ない、ということは出来ない。むしろ、人と話をする時には、相手の顔を見て話すのが礼儀である。普通の人では、これは、問題ないが、内向的な人、視線恐怖症の人では、これがつらいのである。視線が固定してしまうからである。まず、視線恐怖症のインスタントな対処法。それは、相手の鼻を見ることである。目や口では、問題があるが、鼻なら、視点が固定しても、それほど問題ではない。鼻をじろじろ見られたからといって、そう怒る人はいない。
視線恐怖症は、視点が固定してしまうことによって起こる。
では、視線を固定しなければいいではないか、というと、そうもいかないのである。視線恐怖症の人は、自分の意志で、視線を固定しているのではなく、自分の意志とは関係なく視線が固定されてしまうのである。
これはどうしてか。これは、内向性、外向性、という性格に関係しているのである。
世の中の人は99%外向的人間である。これは、人間に限らず、生物というものは、外向的なものである。自分の周囲に関心が向かない生物というものは無い。餌とり、外敵から身を守る、縄張り、などを持ち出すまでもなく、周囲の状況の変化にすぐに対応できるように、耐えず、周囲に関心を持っているというのが、普通である。自分と外界との間に境界線は無い。連続しているのである。
スポーツを例にすると、わかりやすい。この場合のスポーツは、水泳、などのような個人スポーツではなく、野球などのようなチームワークが要求される集団スポーツでなくてはならない。野球の場合、守りの場合、どこのポジションの選手でも、全ては打者がどこに打つか、に集中している。いや、打者だけではない。ランナーが出ていれば、それも頭に入れていなくてはならないし、見方の選手のクセ、長所、短所、など、全ての事を頭に入れていなくてはならない。つまり、野球をしている時は、どこのポジションの選手でも、野球すべてが、見えているのである。自分の心は空で、反射で行動している。さらに、野球だけではなく、応援する人の、僅かな動きでさえ、感じとれる状態にある。心が空で反射で、外界の変化に対応しているからだ。
これが、野球に限らず、人間の普通の生活の状態である。
だから、外向的である、という事が、普通なのであって、内向的であるというのは、病的な精神状態なのである。視線恐怖症の人は、自分と外界が分離してしまっているのである。
では、これを治すには、どうしたらいいか。
野球のような外向性が要求されるスポーツをする、のは、どうか。確かに、やっている時には、多少の効果があるだろう。しかし、効果は、あまりない、と思う。やっている時には、外向的になれても、おわれば、また、元の内向的性格にもどってしまう、からだ。
恐縮だが、私の例を挙げたい。私は、ある心療内科のクリニックで、自律訓練法をやった。それまでも、私は一人でも、何とか自律訓練法を身につけたくて、練習した事があるのだが、上手く出来るようにならなかった。だが、ある心療内科のクリニックのことである。自律訓練法をやった。5~6人が座って、目をつぶり、施術者の、「手が重くなる」などの暗示の言葉をかけていった。私も視線恐怖症に悩まされていたので、真剣にやった。この時、不思議な事が起こったのである。それは、私の視点が自分の目の位置から、離れ、空中に浮いたのである。目をつぶっているから、周りは見えない。想像である。私は部屋の上から、自分を含め、目をつぶって、自律訓練法をしている人達が、まざまざと見えたのである。これは、自律訓練法では、手や足が重くなって、体が動かなくようにするから、でもあり、私が意識して、そういう事をやってみようとしたからでもあると思う。ともかく私は目以外の視点から、自分を見る事が出来るようになったのである。それは、その、たった一回の自律訓練法がきっかけである。クリニックからの帰り道でも、私は意識して、自分の視点を自分の前方5メートルの上方から、道を歩いている自分やその周辺を見る事が出来るようになったのである。もちろん、物理的にそんな事は出来ない。あくまで、想像力である。これは、意識してしようと思わなければ出来ない。そして、これは集中力である。これによって頭の雑念が消え、視点の固定がなくなったのである。私は視線恐怖症は、これと同じような方法で、かなり消せると思っている。つまり、人の中にいる時、何か、ある事に集中力を働かすのである。お経を唱えるのでもいいし、簡単な暗算をするのでもいい。注意を何か、そっちの事に持っていくのである。これくらいのことなら、人間は、何かしながら、人と話をすることくらい容易に出来る。人間は何かに集中している時、かえって視野が広くなるのである。
もっとも、私は人と話す時、や、街を歩いている時、絶えず、視点を宙に移しているわけではない。そんなことしつづけたら、疲れてしまう、し、そんな必要もない。私は体調のいい時と悪い時の起伏が大きく、特に体調が悪くなって、頭に雑念が起こって、視線恐怖症におちいりそうになった時だけ、最後の手段として持っているのである。そして視線恐怖症になった時でも、その対策を持っているから、もう安心なのである。

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逆説反応

2008-05-12 17:45:57 | 医学・病気
逆説反応
精神病院の中には、さらに、個室が数部屋ある。ここは、トイレとベッドしかなく、拘置所より、環境が悪い。テレビもない。患者があばれて物を壊す可能性があるからだ。鉛筆やシャープペンも、禁止の場合がある。尖ったものは、自傷の道具になるからだ。もちろん、自傷の危険が無いと判断されたら、鉛筆は、許可になる。
きれいな個室もあるが、きれいでない個室もある。民間病院は、経営が苦しく、建物を改修する費用がない所が多いからだ。
さて、個室が適応と判断された患者は、重症の患者なのだが、そういう患者には、奇妙な、最悪な事をする場合がたまにあるのだ。トイレの水で顔を洗ったり、自分の便を食べたり、などである。偽善的な事は、あまり言いたくないが、そういう行為は、本当にやりきれない。患者がかわいそうである。しかし、そうする原理は、容易にわかる。これは、何も精神科の患者だけでなく、一般の人でも、ある苦しい状況に置かれたら、起こりうる感情だ。しかし、その原理を書いたものが、見当たらないので、私は、そういう行為を、「逆説反応」と名づけた。これは、そう難しい心理ではない。患者は、してはならない最悪の事をしてしまうのである。これは、精神が追いつめられた時は、落ち着いてものを考えられないから、「してはならない」行為を、「してはならない。してはならない」と、思っている内に、そのタブーが、かえって強迫観念になってしまうのである。患者は、その強迫観念に悩まされつづける。そして、その観念がどんどん強くなって、患者を苦しめるのである。もう、患者は精神的に耐えられなくなってしまう。そこで、「してはならない」ことを、する事によって、精神の苦しみが、解放されるのである。

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うつ病について

2008-05-12 17:41:25 | 医学・病気
うつ病について。
うつ病について、書いておこう。自慢ではないが、私ほど、うつ病、うつ状態になった人間も少ないのではないかと、思う。うつ病の定義は、様々で、症状も、またその度合いも人によって違う。うつ病の本はたくさん出ているので、もう書かれている事は、書かない。
まず、「うつ病」と、「落ち込み」の違いについて。
私は人間の8割は、人生で一度も、うつ病を経験しないと思っている。しかし、落ち込んでる人は、容易に、「あー。オレ、今、うつだよ」と言う。この発言は、全然、悪い事ではない。苦しい時には、弱気な発言をする事は、本能的な自己治療である。もっとも、自己治療というほどの大層なものではないが。真夏の暑い時には、「暑い」と素直に自分の感情を言うのと同じである。
だが、本当の、うつ病になった人は、「私は今、うつ病です」などとは言わない。うつ病にも程度や、種類があって、一概には言えないが。重症のうつ病になると、会社で働けなくなる、そのため上司に叱られる、自分自身の事さえ出来なくなる、自分の事さえ、他人にやってもらわなくては出来なくなる。いわば、「社会不適格者」となる。誰が、「自分は社会不適格者だよ」などと人に自慢げに言うだろうか。私は何度も、うつ病を体験しているが、一時間かけて、本の一行も読めなくなる、文章を一文書くのも出来なくなる。無理して書こうとすると、ものすごく疲れる。いわば、エンジンが不調になった車を無理に走らせているのと同じである。そういう時は、当然、修理工場に出して、修理するのが当然である。でないと、車も人も壊れてしまう。そういう時、頑張るのは、根性ではない。だから、うつ病の時、「頑張れ」という言葉は、禁忌なのである。本人は、頑張ろうとしているのに、出来ない状態が、うつ病なのである。
私は医学的な定義ではなく、私の個人的な感覚として、では、どういう状態を、「うつ病」と定義するかと思うと、それは単純である。
その人が本気で、「死にたい」と思っているなら、それが、「うつ病」である。
というのが、私の個人的な、うつ病の定義である。

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完全自殺マニュアル

2008-05-12 17:39:24 | Weblog
完全自殺マニュアル
患者に逃げ道をつくる。
精神科においては、精神科医は、患者にとっては、自分を理解してくれる人の存在ほど嬉しい事はない。患者が精神科に行くのも、そのためである。
しかし、あまり切れすぎる精神科医というのも、患者は嫌なものである。精神科医は、多少、抜けていた方がいい面もある。患者は患者で精神科医を利用しようとしているからだ。切れることは悪くはない。ただ、患者の心理がわかったからといって、あまり患者を追いつめるようなことをしなければいいのだ。わかっていても、解らない振りをする事も必要なのだ。患者に、「逃げ道をつくっておく」事が大切なのだ。
さて、患者は、自殺のため、薬を貯めたり、死の方法を考えたりする。
「完全自殺マニュアル」という本があるが、世では、賛否両論のようだが、私は、悪い本だとは思わない。むしろ、いい本だとさえ、思っている。楽に確実に死ぬ方法を知っておく事は、生きるか死ぬかで悩んでいる患者にとって、ありがたい事だ。確実に楽に死ねる方法がわかったからといって、人間は、すぐに死んだりはしない。「死にたい」と訴える患者の本心は、「生きたい」である。患者は、死と生の選択で、堂々巡りしている。そして、何も出来ないまま、虚しく日々を過ごしている。楽に確実に死ねる方法がわからないからだ。そこで、いつでも楽に確実に死ねる方法を知っていれば、「いざとなったら死ねばいい」で、精神が堂々巡りから開放されて楽になる。また、「いざとなったら死ねばいい」で、ダメで元々という気持ちで、「生きてみよう」という勇気さえ生まれる。死ぬ方法がわかったら、すぐ人は死ぬか、というと、そんな事はない。日頃、「死なんか怖くない」とうそぶいている人間も、本当の死の恐怖にあったら、絶対そんな事は、言えなくなる。それほど人間の生きたい、死にたくない、という本能は、強い。
ある本にあったが、
「生にしがみつく者は死に、死を抱くものが生きる」
とあったが、まさにその通りだと思う。これは机上の理論ではない。私は、精神科医であると同時に、100回以上ビルの屋上に登って自殺を考えて生きてきた患者でもあり、まさに、その思いで生きてきたからだ。

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