小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

三島由紀夫死後50年

2020-11-27 05:22:52 | 考察文
今年は、三島由紀夫死後50年。

三島由紀夫は、自衛隊の総監を人質にとって、演説して切腹して死んだ。

まず、犯罪でも、人質をとる、というのは、もっとも卑劣な方法だと僕は思っている。

し、それは、皆も認めるであろう事実である。

だけど僕は、三島由紀夫の死は、肯定するけど。

三島由紀夫は、さかんに、

「美しく死にたい」、とか、「華々しく死にたい」、とか、「英雄的に死にたい」、とか、「歳をとって老いて死にたくない」、とか、「夭折したい」、とか、言ってたけど。

「美しく死にたい」、とか、「華々しく死にたい」、とか、「英雄的に死にたい」、とか、「歳をとって老いて死にたくない」、とか、「夭折したい」、などのことは、個人の好み、であって、思想では決してない。



三島由紀夫の、他人との討論は、感情入れまくり、で、非知性的、きわまりない。

三島由紀夫が、他者、東大全共闘、とか、早稲田の学生、とか、評論家、とか、討論する時。

(議論とは、感情を入れず、知性的にすべきものである)

三島由紀夫は、誰かと討論する時、相手が、自分が満足できる発言をすると、やたら、露骨に相手に親しげな態度で接するが、相手が、自分が満足できない発言をすると、相手に対して、やたら露骨に不機嫌な態度で、接する。

これは、おかしいんじゃないの。

というより。

はっきり言って、三島由紀夫の頭の中で、知性と感情で、完全に論理が、出来あがってしまっているので、三島由紀夫と、討論することは、ナンセンスなのである。

議論は、感情を入れず、「真理を追究しようとする」、態度で知性的にすべきもの。

そうすれば、アウフヘーベンも起こりうる。

そして、三島由紀夫は、やたら、自分の、「男の意地」、を、曲げない、で、「男の意地」、を通す、と自分でも言っていて、相手と話している。

これらは、「思想」、と呼べるものじゃない。

三島由紀夫が、文学において、天才的に優れていて、また、非常に、多くの、哲学書、思想書、を読んでいるから、三島由紀夫の思想、も、天才の思想、と、世間の人間は、思ってしまっている。

しかし、だからといって、僕は、三島由紀夫の死を、否定しない。

肯定する。

それが、人質をとった卑劣な犯罪であっても。

それは、三島由紀夫の死には、非常に、誠実な動機、も、含まれているからである。



三島由紀夫は、神風特攻隊、や、明治維新の志士たち(吉田松陰、や、西郷隆盛)、などのように、英雄的に行動して死にたかった。

しかし、そういう事件は、第二次世界大戦の平和な世界では、起こりえない。

だから、自分で、後世に残る大きな事件をつくるしかなかった。

三島由紀夫としては、人を殺さない、演説だけの、二・二六事件、を行ったということ。



三島由紀夫は、「大義」、のために死にたかった。

三島由紀夫が、座右の書、としていたのは、武士の心得を書いた、「葉隠」、である。

しかし、「葉隠」、は、武士は、どう生きるべきか、ということを説いた、武士にだけ、当てはまる書物である。

全ての職業の人に当てはまる思想ではない。

そもそも、「葉隠」、は、思想、と呼べるものか、どうか、疑問である。

「強がる」、「死を恐れない」、「主君のために死ぬ」、などは、思想である。

しかし、それは、戦国時代の武士、のための、思想、であって、戦後には、「武士」、とか、「武士的な職業」、というものはない。

自衛隊の隊員にしたって、決して、「武士」、ではない。

防衛大学にしたって、自衛官たちに、「日本の防衛のために命をかけろ」、とは、決して言っていない。

(それは、戦前の日本の教育である)

また、自衛官たちも、「日本の防衛のためなら命をかけよう」、とは思っていないし、(なかには思っている人も数人は、いるかもしれないが)、また、はたして、「国防のために殉死する」、ことが、はたして、正しいことなのか、どうか、は疑問である。

だから、武士道に生きよう、とする、三島由紀夫、と、戦後の、日本国民、との間で、考えが、一致するはずがない。

まあ、あけすけに言ってしまえば、三島由紀夫の思想は、アナクロニズム(時代錯誤)、も、いいとこである。

三島由紀夫は、自衛隊員たちに、憲法改正の、クーデター、を、起こせ、なんて言ってたが、自衛隊が、クーデター、を起こすはずがないのは、三島由紀夫も、わかりきっている。

起こりえない、と、わかりきっている、ことに、対して、大真面目に、真剣に、命がけで、演じて、訴えるのが、三島由紀夫の、ユニークで、命がけの、真剣な、性格である。



さて、武士であるためには、その人のために死ねる主君、というものが、どうしても必要になる。

宮本武蔵は、仕官しなかったから、武術家、兵法家、とは、言われるが、武士、とは、言われない。

主君がいなければ、武士には、なれないのである。

三島由紀夫は、武士になりたかったから、主君、というもの、が、どうしても、必要だったのである。

主君が、いなければ、作り出すしかない。

しかし、三島由紀夫にとって、幸いなことに、日本には、主君たりえる存在が、あったのである。

それは、言うまでもなく、天照大御神から、続いている、天皇制、である。

その、天皇制こそが、三島由紀夫にとって、日本の、歴史、伝統、文化、だったのである。

そこで、三島由紀夫は、自分が、武士になるために、天皇を、担ぎだして、天皇を主君にしたのである。

自分が武士になるために、天皇、の存在が、必要だったのであり、その天皇を、もっと神格化したかったのである。

あけすけに言ってしまうと、三島由紀夫にとって、天皇の人格などは、どうでもよかったのである。

さらに、あけすけに言ってしまうと、三島由紀夫は、天皇を、日本の絶対者、崇拝の対象にして、天皇のために、死ぬ、ヒロイズムに酔いたかったのである。

これは、軽率な心理であるが、三島由紀夫は、自分の軽率さ、を自覚しつつも、(武士になりたい、武士として死にたい)、という、三島由紀夫にとって、絶対、ゆずれぬ、目的のために、軽率な自分の信念に忠実であったのである。

三島由紀夫は、死ぬ、10日まえに、評論家の古林尚氏、と、対談しているが。

三島由紀夫は、その時、「主君は天皇でなくてもいいんですよ。封建時代の殿様でも、何でも、いいんですよ」、と、平然と言っている。

非常に、軽率だが。

太宰治は、「自分は非常に軽率な人間である」、とか、「小説家は人間に尊敬されてはならぬ」、とも、言っている。

しかし、逆に、偽りのない自分の本心を言う、人間は、誠実であると言えよう。

三島由紀夫も、感性においては、「軽率」、なものがあった。

三島由紀夫は、太宰治を嫌っていたが、それは、三島由紀夫が、太宰治に、いくつもの自分との共通点、を見た恥ずかしさ、ゆえである。



人間は、自分が、ずっと、信じてきた、自分の信念を、簡単に変えることは出来ない。

誠実な人間にとっては。

終戦によって、多くの、誠実な日本人は、自分の良心に苦悩した。

三浦綾子さんは、戦前は、教師で、自分史的小説、「道ありき」、で、戦前、生徒たちに、教えていたこと、と、正反対のことを、戦後、教えなくてはならないことに苦悩した。

オウム真理教の信者も、麻原を絶対者として、信じていたが、麻原、が、無差別殺人したことを、知って、想像を絶する、苦悩におちいったことだろう。

三島由紀夫は、戦前は、「日本は太平洋戦争に負けて、日本は滅びて、自分も死ぬ運命である」、という絶対的な信念をもっていた。

遺書も書いた。

その信念を、終戦によって、コロリと、変えることは、どうしても、出来ないことだった。

三島由紀夫に限らず、誠実な人間は、終戦による、価値観の転換、に非常に苦悩した。

自分の思想を、コロコロ変えるヤツが、いい加減なヤツであることは、言うまでもないことである。

そんなヤツは、恥知らず、である。

だから、三島由紀夫は、終戦によって、価値観を、180度、てのひら返しに、平気で、変えた日本国民の多くを嫌っていた。



三島由紀夫は、無神論者であり、ニヒリストである。

三島由紀夫の、小説のテーマの一つに、「エロティシズム」、がある。

エロティシズムには、絶対者(神)、の存在が、どうしても、必要なのである。

しかし、三島由紀夫は、無神論者である。

そこで、絶対者、が、存在なしくても、成立する、エロティシズム、というものを、考察した、文学者、哲学者、の、ジョージ・バタイユ、にも三島由紀夫は、大変、興味をもった。

バタイユ、は、エロティシズム、の、ニーチェ、と言われているほどである。

そこで、三島由紀夫にとって、「死=美=エロティシズム」、という、考えが、かたまって行った。

死、と、美、と、エロティシズム、は、等価である、という考えである。

そして、自分の死によって、それを実行した。



知行合一。

三島由紀夫は、陽明学の、知行合一、思想を、信条としていた。

小説は、フィクションだから、小説の、テーマ、と、小説家の行動が、一致する必要はない。

しかし、三島由紀夫は、小説、以外にも、評論文、も、多く書き、自分の思想を、社会に訴えていた。

そこで、言ったり、評論文で書いたり、した自分の思想を、行動しないのは、卑怯だ、と考えていた。



死人を罰することは、物理的に不可能である。

三島由紀夫は、光クラブ事件を、モデルにした、長編小説、「青の時代」、を書いているが、あの主人公、山崎晃嗣、は、「合理主義」、「感情を入れないニヒリズム」、「英雄志向」、などで、三島由紀夫と、共通する性格があるが、(だから、彼をモデルにした小説を書いたのだが)、法的、物理的に、「死者を罰することは出来ない」、という、当たり前のことを、利用した。



三島由紀夫は、(嫌っている)太宰治の言う、「家庭の幸福は諸悪の根源」、という思いをもっていて、ささやかな、平和的な、家庭生活、を嫌っていた。

男は、行動すべきだと思っていた。

それは、三島由紀夫の文学作品の中でも、何度も、述べられている。

だから、思想の方向性は、違うが、学生運動で行動した、全共闘の熱意は評価していた。

行動の情熱が大きければ、大きいほど、三島由紀夫は、それを評価した。

三島由紀夫は、命がけの行動が好きだった。

しかし、行動した後、なぜ、死ななければ、ならないのか?

それは、三島由紀夫の、好み、であって、行動した後、死ぬ必要はないと思うのだが、それが、三島由紀夫の、美的価値観なのだから、仕方がない。

確かに、トップアスリート、や、プロスポーツ選手が、引退すると、さびしい。

現役の時は、過酷な練習をし、厳しいウェイトトレーニングをし、ボクシングなど、階級制のスポーツでは、食べたい物も食べず減量して、ウェートをキープしなければならない。

大きな目標のために、精一杯、頑張って生きている。

しかし、トップアスリート、や、プロスポーツ選手が、引退すると、もう、生きる目標も無くなり、苦しいトレーニングから解放されて、トレーニングもしなくなり、食い物も、食いたい放題になるので、ブクブクに太って、みっともなくなる。

だから、「大きな目的をもっている人間が、行動を終えた時、死ぬべきだ」、という考えは、十分、わかる。

僕も、引退した、アスリートには、全く興味ない。



三島由紀夫は、だらしない日本人を嫌っていた。

しかし、愛国心はもっていた。

しかし、この、「愛国心」、という言葉が、クセモノなのである。

「愛国心」に関する、格言には、ロクなものがない。

「愛国心」、という言葉ほど、言葉の定義が、いい加減、な言葉はない。

愛国心、とは、一体、何を、愛するのか?

それぞれの、人間が、自分に都合のいいように、使っている。



僕は、三島由紀夫から、思想的な影響は全く受けていない。

小説創作において、言葉の使い方、の技巧的なことでは、参考になったが。

また、盾の会の残党にも、ロクなヤツは一人もいない。



三島由紀夫は、死ぬまで、「外見の美しさ」、「カッコ良さ」、ということに、こだわり続けた。

若い頃は、「文章は絶対、美しくなければならない」、ということに、こだわった。

大人になって、行動するようになっても、行動も、「外見の美しさ」、「カッコ良さ」、があることが、三島由紀夫にとって、絶対、必要なことだった。

盾の会の制服。

あの、きらびやかな制服は、一体、何だ?

まるで、お偉い将校の夜会服。

まあ、全部、三島由紀夫が、金、出して、つくったのだから、他人のことに、とやかく言うスジアイはないが。

盾の会、とは、日本を守る民兵組織でしょ。

なら、戦いやすい、機動的な服装の方が、いいはずだ。

三島由紀夫は、誠実な人間だが、三島由紀夫独自の個人的な美的価値観にまで、つきあう必要はない。

し、つきあう気もない。



三島由紀夫の小説のテーの一つに、「認識と行動」の問題もある。

非常に、カント哲学を感じる。

イギリス経験論によって、哲学が、危機に瀕したのを、カントは救ったのである。

それまで、哲学は、テオリア(静観)することだと思われていた。

それを、カントは、行動によって、物事を認識することが出来る、という考えを、提唱したのである。

「金閣寺」でも、主人公の溝口は、悩んだ末、「世界を変えるのは行動だ」、という結論に達して、金閣寺を放火する。

それは、三島由紀夫の、自決でも、同じである。

まあ、これには、「禁をやぶることが、エロティシズムである」、という、バタイユ哲学も、影響しているが。



三島由紀夫は、諧謔家である。

誰に対しても、常に、シニカルなユーモアを、交えて話していた。

ユーモアは、冗談、さぶけ、であって、思想ではない、と人は思うかもしれないが、それは、三島由紀夫の場合、完全な間違いである。

「葉隠」では、「強がる」、ことを美徳としている。

「強がる」ことを、信念としている人は、ほとんどの人間のように、「謙遜」、することをしない。

「オレは絶対、謙遜なんかしないぞ。人間関係においては、シニカルなユーモアを言って、強がるぞ」、という信念は、思想である。



文芸評論家や小説家は、(奥野健男とか、福田恆存とか、川端康成も)、や、有識者を自称する連中は、三島由紀夫事件について、気取ったことを言って、カッコつけてるだけで、何もわかっていない。

いいだもも、は、かなり理解しているが。



三島由紀夫が感じる、「美」、と、一般の人間が感じる、「美」、とは、全然、違う。

だから、「美」、も、三島由紀夫の小説のテーマの一つだった。

「仮面の告白」、でも述べられているように、三島由紀夫は、「女」、に、対して、「性愛」も「恋愛」も、感じられなかった。

三島由紀夫は、逞しくて、頭のあまりよくない男を愛してしまう感性だった。

三島由紀夫にとって、「女」、が、一体、どう見えたかは、誰にも、わからない。

しかし、三島由紀夫は、短編小説で、たくさんの、男女関係の、恋愛的な小説を書いている。

この理由は、簡単で、倒錯者にとっては、「世間の、男女関係とは、一体、どういうものなのか?」、ということが、わからないから、それが、問題意識となり、それを小説で描きたい、という欲求が起こるからである。

それに、三島由紀夫は、「可愛らしいもの」、を描くのが、好きだった。



三島由紀夫が、「人間とは・・・」、と言って何か言う時、その意味を考えてはいけない。

なぜなら、それは、「人間一般」、に、当てはまる法則ではないからだ。

それは、「人間一般」、に当てはまることではなく、三島由紀夫だけに、当てはまる事だからである。

それは、三島由紀夫、自身も、わかっていただろう。

しかし、三島由紀夫は、「強がる」性格だから、「私は・・・なんです」、という、弱い言い方を嫌ったのである。



三島由紀夫は、女と情死することが、「美しい」、と見えたのだが、僕は、全く、そうは、思わない。

むしろ正反対である。

僕は、ある場合には、自殺は否定しないが、男が死ぬ時は、道連れ、を出しては、決していけないと思っている。

一緒に死んでくれる、道連れ、がいると、「死」の、Threshold、が、低くなってしまうからだ。

男は、どんなに、「死」、が、こわくても、死ぬ時は、一人で死ぬ方が、はるかに男らしいと思っている。

三島由紀夫は、総監を人質にとって、止めに入った、自衛官を切りつけている。

壮大な死が、三島由紀夫には、英雄的で、美しいと思ったのだが、僕には、英雄的な死には、全く思えない。

その理由は、いくつかあるが。

(1)盾の会の会員を、何人か、使ったこと。

僕が、何か違法なことを、やるとしたら、てめえ一人の力でやる。

誰の助けも借りない。

犯罪でも、共犯者を使うのは、男として、卑怯だと思うからである。

(2)刀、日本刀を使ったこと。

三島由紀夫にとっては、日本刀は、「武士の魂」、なのだろうが、ジャック・ロンドン、が言っているように、「人間の発明による凶器」、を使うのは、卑怯者、腰抜け、のすること、だと僕は思うからである。

(3)「自分の死」に、道連れ、を出したこと。

三島由紀夫は、森田必勝も死なせてしまった。

僕は、どんなに、「死」が、こわくても、男は、死ぬ時には、一人で死ぬべきだと思っている。

自分の、「死」、に、道連れ、を出すのは、腰抜け、のやることだと思っている。



三島由紀夫は、人から理解されない、という自信をもっていた。

そして、人間が、他人を理解しようとする行為を、「不潔な行為」、という思いを持っていた。

確かに、世の中の人間には、「自分を無にして相手を理解しようとする」、人は、極めて少ない。

ほとんどの人間は、「自分流の解釈、偏見で、相手を理解した気になっている」、人間がほとんどである。

さらに、人間の心は、ロボットてはなく、諸法無我、であり、また、歳月が経つことによって、自分の考えが、変わることもある。

だから、人間の、identity は、厳密に言うと、つかめめないもの、である。

しかし、少なくとも、僕は、「自分を無にして相手を理解しようとする」、態度を持っているつもりなので、「相手を理解している」、なんて、僭越で傲慢なことは、言わない。

そして、「人間は他者を理解できない」、という前提をもって、それで、「自分を無にして相手を理解しようとする」、態度を持って、相手を理解しようと、努力するなら、その行為は、「不潔」だとは思わない。



三島由紀夫は、「自分のためだけに生きていると、卑しさを感じる」、とか、「民主主義、自由主義社会においては、自分を超える価値、というものが無いと、何のために生きているのか、わからなくなる」、とも言っている。

三島由紀夫は、精一杯、全身全霊を込めて、文学作品を書き続けた。

それは、三島由紀夫が、書きたいから、書いたのであり、自分のためである。

しかし、小説家に限らず、芸術家は、芸術作品を通して、世間の人間と、関わりをもっている。

そして、芸術作品は、世間の人間を楽しませる。

また、芸術家も、世間の人間を楽しませるために、芸術作品を作っている。

それは、三島由紀夫でも、同じである。

だから、芸術家は、「自分のためだけに生きている」、などと卑下する必要は、全くない。

しかし、三島由紀夫は、一般の人間と違って、理想が高かったから、そうは、思えなかったのである。

人間は、「何もしなくてもいいよ」、という状態になった時、ほとんどの人は、自分の、やりたいこと、好きなこと、をやる。

あるいは、だらけて、何もしなくなる。

人間は、何か、自分にとって嫌な拘束があった方が、生きよう、何かをしよう、という、情熱が起こるのである。

たとえば、男女の恋愛においては、恋愛の成就が妨害された方が、恋愛の情熱が激しくなるのである。

何の困難も無い、みなが祝福する、男女の恋愛では、恋愛の情熱の度合いは、燃え盛らないのである。

このことは、西尾幹二氏の、「国民の歴史」という本の中で、「人は完全な自由に耐えられるか」、と題して書かれている。

だから、三島由紀夫は、「経済的繁栄にうつつをぬかし、精神は、カラッポになった」、と、戦後の日本人を嫌っていたのである。



「自分に向けられたサディズム」

三島由紀夫は、「仮面の告白」、でも、述べているように、サディストだった。

それを、精神の中で、とどめておくのなら、問題はないが、三島由紀夫の、「死」、には、「自分に向けられたサディズム」、の快感の興奮を求めて、それを実行してしまった、という面もある。

ボードレールの言う、「死刑囚にして死刑執行人」である。

サディズムの極致は、生易しいSМプレイなどではなく、「死」なのである。



三島由紀夫は、「暴力を肯定する」、と堂々と言った。

これを、一般人は、おかしい、と思うだろう。

しかし、これは、全然、おかしくない。

三島由紀夫は、子供の頃、起きた、二・二六事件に、強い影響を受けた。

三島由紀夫の言う、「暴力肯定」、とは、政府、や、国家権力、などの、不正に対する、暴力のことである。

大塩平八郎の乱、で、はたして、大塩平八郎は、悪人なのだろうか?

日本の法、や、国家権力、政府、は、はたして、正しいものなのだろうか?

ジョン・アクトン、が言うようよ、「権力は腐敗する」のである。

それは、共産主義国家(独裁国家)、だけではなく、民主主義国家でも、同じである。

それを、法を守った、選挙の投票による、ノロノロ、グズグスした、方法で、変えることは、何十年、いや、100年、以上、かけても、起こるものではない。

だから、手っ取り早く、腐敗した、国家権力、を、変えるには、法を破った、違法な行為で、やるしかない。

違法な行為をすれば、犯罪者となる。

あとは、警察につかまって、裁かれるだけである。

あるいは、法を犯した後、死んでしまえば、司法は、死人を裁くことは出来ない。

三島由紀夫は、ドライな性格なので、犯罪というものを、極めて、事務的に処理されるものと考えていた。

そして、世界規模でみれば、「暴力の否定」、などということは、きれいごと、の、ナンセンスである。

国連決議だの、軍事同盟だの、と言ったところで、兵器、兵力、を、一番、たくさん持っている国が、「戦争」、によって、世界を支配できるのであり、しているのである。

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コロナの収束と経済活動の両立は可能

2020-11-26 22:48:10 | 医学・病気
コロナの収束と経済の両立。

それは簡単。

それは、無能で、ド素人の、コロナ担当大臣の西村をやめさせて、京大の、ウイルス研究者の、宮沢孝幸先生を、民間議員として、コロナ担当大臣に替えること。

宮沢孝幸先生は、研究者バカではない。

ちゃんと、しっかり、世間も知っている。

なにより度胸がある。

今、日本が、ヨーロッパのように、ロックダウンしないで、やっていられるのは、宮沢孝幸先生のおかげ。

宮沢孝幸先生は、だんだん知名度が上がってきているが、まだまだ、ネット、や、講演会に呼ばれる程度で、知名度は少ない。

宮沢孝幸先生に、国会で、コロナ担当大臣として、発言させたり、記者会見させて、日本中に、先生の意見を発信させれば、コロナの収束と経済活動の両立が可能となる。

しかし、派閥、党内力学で決まる、腐った自民党、や、スガ、に、それを、期待するのは無理というもの。

スガにへつらうヤツでないと、大臣にはなれない。

自民党はヤクザ社会だからね。

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調べる医者と調べない医者

2020-11-23 15:30:33 | 医学・病気
調べる医者と調べない医者。

患者が医者にかかった場合。

患者が症状を、訴えた時、ほとんどの医者は、机の横に置いてある、パソコンで、病気を調べる、ということをしない。

医者にしてみれば、そんな事をしたら、自分が、病気に関して知らない、ということを、患者に見られ、知られる、こわさ、からである。

医者は、病気は、すべて知っていて、頭の中に、病気に関する、すべての病気の知識がある、から、調べないで、答えるもの、答えられるもの、という、プライドがある。し、調べたら、恥ずかしい、という思いがある。

しかし、僕は、医者であると、同時に、多くの病気、をもっている患者でもあり、いくつもの医者にかかっている。

そして、患者として、医者を見た場合。

症状を訴えた場合、机の横に置いてある、パソコンで、調べる医者、と、調べない医者、の、どっちの方が、信頼できるか、といったら、100%、パソコンで、調べ出す医者の方が信頼できる。

患者が、症状を訴えて、医者が、パソコンで、調べ出すと(そんな医者まずいないけど)、

「おっ。この医者は、やる気がある医者だな」

と、感心するからである。

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コロナを名目にして低所得労働者が日頃の欲求不満を発散

2020-11-21 14:49:15 | 考察文
コロナを名目にして低所得労働者が日頃の欲求不満を発散。

いつもは、大切な、お客様、で、「ありがとうございます」、と言っているけど。

本音は、「お前らに、低所得者のつらさ、なんか、わかんないだろう」、と、欲求不満。

そこに、コロナ。

店にアルコール消毒液を置いておいて、手をアルコール消毒しないと、

「お客さん。手をアルコール消毒してください」、と、厳しく叱る。

私は、お客様へのサービス第一主義ですけど、コロナ感染対策のためには、厳しく叱りますよ、というのが、彼らの思い。

それでいて、休み時間に、マスクをはずして、対面して、長時間、お喋りしていれば、世話ないわ。

コロナウイルスについて、調べてもいないのに。

手をアルコール消毒をしない、のと、マスクをしない、長時間の、お喋り、と、どっちの方が、何百倍、危険なのか、調べもしないで。

まるで、ヒットラー総統が、ユダヤ民族は、悪い民族、だから、迫害せよ、と言えば、ユダヤ人を、平気で迫害し、それが正しいことだと思ってた、ドイツ国民と同じ。

太平洋戦争中、天皇は神であり、天皇のために、死ぬことが、正しいこと、と信じていた、日本国民とも、同じ。



「お上の事には間違いはございますまいから」

(森鴎外「最後の一句」より)

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ネバカにおしゃべり禁止は不可能

2020-11-20 19:26:59 | 考察文
ネバカにおしゃべりを禁止させることは不可能。

東大法学部を優秀な成績で卒業した官僚たちに、仕事後の、ノーパンしゃぶしゃぶ、での、どんちゃん騒ぎ、を、やめさせることは、不可能。

司法試験を通った、検察の上層部の、ヤツラに、国民の税金の裏金での、どんちゃん騒ぎ、を、やめさせることは、不可能。

「そんな事やめろ」、と、注意すれば、三井環氏の、ように、冤罪をでっちあげられて、極悪人の犯罪者に仕立て上げられて、2年間、刑務所ぐらし、させられるのが、オチ。

まっ。

ペーパーテストで、満点とれる、やつらの、頭の程度なんて、こんなものでしょ。

他の一般のやつらも、同様。

ネバカにおしゃべりを禁止させることは不可能。

西村コロナ担当大臣は、「これからどうなるかは、神のみぞ知る」、などと、バカなこと言ってるけど。

地震がいつくるかは、予測できないから、「首都直下型地震がいつくるか」、は、「神のみぞ知る」、だが、コロナの感染を防ぐ方法は、わかりきっている。

それは、黙ること。会話してもいいど、マスクして会話すること。

と、わかりきっている。

行政は、ニーチェ、の、「神は死んだ」、で、なくてはならない。

人類の歴史は、「神の意志」、によって作られてきたのではなく、人間の意志によって、作られてきたのであり、未来も、「人間の意志」、で、作っていくべきものなのは当たり前。

飲食店を批難するのは、お門違い。

飲食店が、かわいそう。

コロナの感染を抑えながら、飲食店の経営の両立は、簡単である。

忘年会にせよ、黙って食事を全部、食べてから、その後、マスクして、話せばいい。

会話したいなら、方法は、いくらでも、ある。

手話が出来る人はいないだろうけど、身振り手振りで、パントマイム、のようなことを、させて、意思表示させても面白いたろう。

携帯電話を使っても、お喋りできる。

あるいは、電子メール、や、チャット、でも、会話できる。

あるいは、黒板を置いて、言いたいことを、文章で書かせればいい。

あるいは、社員、一人一人に、順番に、今年の感想を、述べさせる、というのも、面白いだろう。

あるいは、やりたい人に、かくし芸、を、させてもいい。

あるいは、音楽をかけて、やりたい人に、阿波踊り、など、を、させても、面白いだろう。

楽しむ方法など、いくらでもある。



そもそも、「会食時のお喋りは楽しいもの」、という、命題は、真ではない。

僕のような、内向的人間にとっては、会食のお喋り、は、聞き苦しく、苦痛でしか、ない。

なので、僕は、会食なんかには、出ない。

ネアカ人間にとっては、「会食時のお喋りは楽しいもの」、であるのだろうが、誰でも、自己主張したがって、自分の言いたいことを、言っているので、他人と考えが、違うと、口論になって、会食が、不快なものに、なる、という場合もある。

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トップアスリートどもは傲慢でおこがましい

2020-11-15 19:23:36 | 考察文
トップアスリートどもは傲慢でおこがましい。

よく、自然災害、などが、起こった時、プロスポーツ選手、や、トップアスリートどもは、「勇気を与えたい」、などと言っているけど、この発言は、傲慢で、おこがましく、僕には、ちゃんちゃら、おかしい。

彼らは、普段から、全力で、戦っているけど、「勇気を与える戦い方」、というは、いつもの、戦い方と違うのだろうか?

まったく、違いはない。

僕は、トップアスリート、や、プロスポーツ選手、から、「勇気」、を、もらったことなど、一度もない。

パラリンピックの選手からは、「ああ。障害があるのに、頑張っているなー」、と、何も言わなくても、勇気をもらっている。

その他、僕は、小説を書いているので、(死ぬまで書く)、膨大な量の、作品を、寝る間も惜しんで、書いている、小説家、の存在を、思うと、ファイトが沸く。

それは、何も、小説家に限らず、芸術家全般、その他、学者、研究者、など、頑張っている人間、全般に言える。

特に、病気をもって、病気と戦いながら、頑張っている人間からは、何も言わなくても、勇気を受ける。



とはいえ、トップアスリート、や、プロスポーツ選手でも、義援金を出す、選手は、立派だと思う。

(勇気は全くもらわないけどね)

小説家は、(すくなくとも僕は)、「もうこれでいいや」、という、「限界」、や、「満足感」、や、「達成感」、というものが無い。

小説家(芸術家、学者全般)、は、フロイトの言う所の、「死」、の願望などない。

少なくとも、僕は、そうである。

生きて生きて、生き抜いて、健康状態を保っていれば、小説が書けるのだ。

人間は、肉体は、老いても、精神活動は、老いない。

小説家に、「引退」、という言葉は無い。

宮沢賢治、石川啄木、その他、近代文学者、の多くは、若くして、死ななければ、その後、死ぬまで、小説を書き続けたのだ。

小説家が、小説を書けなくなるのは、死んだ時、だけである。

死んだ人間には、あらゆる精神活動が、出来なくなる。

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今はCO2を積極的に排出すべきじゃないの

2020-11-15 00:25:20 | 考察文
今はCO2を積極的に排出すべき。

と、どうして、個人、も、政府、も、誰も言わないの?

世界各国が、CO2、が、地球を温暖化させる、悪い物質だから、CO2を削減すべき、と言っているど。

(僕は、CO2が地球を温暖化させている、とは、全く思ってないけど)

今、世界各国が、真っ先に、取り組むべき問題は、コロナの収束、だと思うけど。

そして、それは、僕だけでなく、ほとんど、全ての人が、そう思っていると、思うけど。

なんせ、医療崩壊、経済崩壊、社会崩壊、が、コロナウイルスによって、実際に、世界規模で起こっているのだ。

コロナウイルスは、寒い方が感染力が強くて、温かい方が、感染力が、弱いのだ。

それは、コロナウイルスの実験によって証明されているので、世間の人間も認めている。

なら、今は、地球温暖化、大歓迎、じゃないの?

むしろ、今は、地球温暖化を、積極的に推進すべきじゃないの?

どんどん、CO2を排出して、地球が温暖化すれば、コロナウイルスも、収束しやすくなってくれるのだ。

この矛盾を、僕、以外で、言っている人は誰もいない。

世間の人間は、全く、矛盾したこと、を、言ったり、やったり、している。

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第三波の原因は、「お喋り」

2020-11-12 23:46:50 | 医学・病気
第三波の原因は、「お喋り」。

なので、「会話禁止法」、を、つくり、「お喋り罪」、をつくれば、第三波は、簡単に、ふせげる。

お喋り、したら、罰金、10万円、とすれば、第三波は、ふせげる。

お喋り、しなければ、Go to キャンペーンも、全く問題ない。

観光地、や、スキー場に行っても、黙って、名所旧跡を見て、楽しんだり、黙って、スキーを楽しんだりしていれば、全く問題ない。

深夜の飲食店の営業も、全く問題ない。

しかし、人間に、くっだらない、「お喋り」、をやめさせることは、絶対に、「不可能」、である。

人間は、地球が滅びるより、お喋り、することを、選ぶ、愚かな動物である。

第三波は、冬なって、乾燥、寒冷、など、の複合的要因が原因など、と、わかったような、気取った事、言っているけど、全く、間違いである。

むしろ逆である。

かえって、乾燥、寒冷、対策をしているんだ、ということに、安心感を、持ってしまって、それをしていれば、感染しない、と、思って、お喋りを、平気でするよになる。

人間は、バカだから。

喫茶店、や、マクドナルド、に、「お喋りをしないで下さい」、と、目につく場所に、書いておくべき。

しかし、それも、人間は、守れない。

なぜなら、僕以外の人間は、お喋りする動物だから。

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コロナをこわがり過ぎている医者はヤブ医者

2020-11-11 01:26:22 | 医学・病気
コロナをこわがり過ぎている医者はヤブ医者。

なので、要注意。

11月になって、寒くなってきた。

僕のかかりけつのクリニック(僕は、医者でもあるが、IBS、喘息、不眠症、の患者でもある)では、コロナ感染、に、ビビッてしまっているので、換気のし過ぎと、空気清浄機をガンガンつけているので、待合室が、ドっ寒かった。

そもそも、医者は、学者でも、知的職業でもない。

十年一日の、同じ事の繰り返し、の毎日である。

朝から、閉院時間まで、診察の仕事が終わったら、あとは、ビールを飲んで、野球観戦、くらいである。

時間外に、ネットで、ウイルス学を、調べようとする、ヤツなんか、いない。

まあ、テレビのニュースくらいは、見るだろうが、ニュースでは、本当のことは、知ることは出来ない。

なので、医者は、ヤブ医者ばかりなのである。

学会なんて、レベルが低いし、いい加減な組織だし、そんな所で、取った、なんとか専門医なんて、肩書き、は、全く、無意味だし。

医学部では、ウイルス学、なんて、無いのである。

(細菌学はあるけど、ウイルスのことは、ほとんど、述べられていない)

一年の教養課程の、生物学で、ウイルスの事を少し、学んだだけである。

医者なんて、その程度の、知識しかない。

向学心のあるヤツなんて、いないのである。

東大医学部、北大医学部、教授の、8割おじさん、の、西浦博、教授が、いい例である。

そもそも、医学部教授は、ほとんとが、向学心の無いバカである。

これは、事実である。

ポリクリ(臨床実習)、で、大学病院の医師の言ったこと。

「医学部を出て、基礎医学に行くヤツは、よっぽど、頭のいいヤツか、よっぽど、のバカか、の、どちらか」

この意味、わかるかなー?

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グレタ・トゥーンベリさんの矛盾

2020-11-08 01:22:09 | 考察文
CO2が地球を温暖化させている、と言って、脱炭素社会を主張した、正義感のある、グレタさん。

彼女は正義感が、強いから、今度は、アメリカ大統領選で、シッチャカメッチャカの、トランプ氏を批難した。

しかし、今、世界で一番、優先して解決するべき問題は、コロナ対策、である。

コロナウイルスは、寒い方が、温かい環境の方より、感染力が、10倍も強いのだ。

これは、グレタさんも、認めているだろう。

純粋なウイルス研究者たちの研究による、一致した見解だから。

だから、今は、地球は、温暖化した方が、コロナが収束しやすくなってくれるのだ。

バイデン氏は、大統領に就任したら、すぐに、パリ協定に参加する、と言っている。

しかし、今は、コロナ収束のために、地球は温暖化した方が、いいのだ。

この矛盾をグレタさんは、気づいているだろうか?

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ネクラはコロナに感染しない

2020-11-05 09:01:23 | 医学・病気
ネクラはコロナに感染しない。

コロナに感染するのは、ネアカ人間である。

ネクラは、友達がいないから、友達と、お喋りするということがない。

かくいう、ネクラの僕は、友達が、一人もいない。

なので、友達と、お喋りする、ということが、全くない。

なので、まず、コロナには、感染しないだろう。

喫茶店とか、マクドナルド、とかに、入ると、ネアカ人間の、お喋りする、エネルギーに驚かされる。

人間は、お喋りせずには、いられない動物である。

僕は、コロナ感染のほとんどは、対面しての、長時間のお喋り、によるものだと思っている。

日本人も、お喋りだが、欧米人の、お喋り、のエネルギーは、もっと、すごい。

ヨーロッパで、感染者が増えだして、ロックダウンせざるをえなくなったが。

マスクしないで、大勢が、集まって、飲み食いしながら、長時間、バカはしゃぎしていれば、当然、コロナ感染するわな。

それで、ロックダウンして、夜間営業を禁止にして、仕事をやめさせたり、減らしたりして、政府が、80%の、休業補償なんか、出している。

実に、バカげている。

単に、マスクして、会話はしないで、静かに、食べることを、守らせれば、ロックダウンなどする必要はないのだ。

そんな、「子供のしつけ」(僕の嫌いな言葉)、のような事も、大人は出来ないから、ロックダウンせざるをえないのだ。

「お喋りを、やめられないのなら、仕事させませんよ」、と、政府、という親、が、ききわけのない、子供、(国民)に注意するけど、子供の国民は、守れないから、親である政府は、「もう、仕事させません。夜間の外出は禁止します」、と、強硬手段をとるしかないのだ。

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gooブログのデメリット

2020-11-02 12:54:27 | 考察文
gooブログでは、「6時間以内にアクセスした人」、が、「アクセス解析」、でわかる。

一瞬、見ただけでも、「6時間以内にアクセスした人」、ということになっていのるだろう。

こうすると、少し、誰かのブログを見たくて見ても、相手のブログにアクセスすると、6時間、相手のブログに、自分が見たことが、相手に、わかってしまう。

こうすると、相手に気を使わせるし、こっちも、恥ずかしいし、何だか、ストーカーしているような気になってしまう。

僕は、誰に、何時間、見られても、全然、イヤじゃないけどね。

むしろ、嬉しいけどね。

しかし、こうすると、gooブログ利用者間での、アクセス効果を減らす効果があるように思う。

自分が、相手のブログを見ていることを、相手には、知られたくないのだ。

これは、単に、「アクセス解析」、で、gooブログの閲覧者を表示しなければいいだけである。

なので、そのうち、gooブログでも、この点を変えてくるように思う。

しかし、総合的・俯瞰的に考えて、アクセス数は、増えるだろう。

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