小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

アントニオ猪木、対、モハメッドアリ

2010-10-31 23:32:45 | 武道・スポーツ
アントニオ猪木の異種格闘技戦で。猪木はヘビー級ボクサーのモハメッドアリと戦っている。あの戦いで、猪木は、マットに寝てキックだけで戦った。しかし、あの戦法は、おかしい。猪木は勝てたのである。「ヘビー級ボクサーのチャンピオンのパンチは当たれば命取り」という固定観念にとらわれすぎ、それを恐れすぎた。確かに、ボクサーのパンチがクリーンヒットしたら、非常に危険である。しかしボクサー同士の戦いでは、クリーンヒットのパンチが当たっても、死んだりしない。確かにボクサーは、ボクサーのパンチに対するガードの技術を身につけている。レスラーにはその技術がない。しかしである。素手のパンチが危険だからボクサーは当然、グローブをはめる。このグローブは、単なる顔面パンチの威力軽減だけではない。体を捕まえられたら、もうおしまい、という極めて不利な条件までつくってしまっている。グローブをはめたボクサーは、手で相手の体をつかむことすら出来ないのだ。さらにグローブをはめることによって戦いの最中、常に非常にスタミナを消耗させられてしまう。つかまえられたら、もうおしまいで、逃げることは出来ないのである。ボクサーは空手家のように肘打ち、や膝蹴り、などのキックも出来ない。立った姿勢でのパンチ攻撃だけ、という極めて限定された条件のスポーツなのである。確かにボクサーのフットワークは素早い。しかし猪木も素早く動ける。だから胴なり、腰なりをラグビーのようにタックルして、捕まえてしまえば、もう猪木の勝ちである。猪木は慎重になり過ぎた。屈んだ姿勢でやってくる敵に対するパンチ攻撃というものをボクサーは知らない。猪木は、「ヘビー級ボクサーのチャンピオンのパンチは当たれば命取り」
という固定観念にとらわれすぎた。
ボクサーのグローブは、パンチの威力を軽減するためだけではなく捕まえられたら、もう何も出来ないという不利な条件にしてしまっているのだ。

その点、ブルース・リーの「燃えよドラゴン」での最初の戦いで、リーはオープンフィンガーグローブというものを使ってサモハンキンポーと戦っている。これは素手のパンチの危険さだけを取り除くだけのもので、何とブルース・リーの格闘の才能が天才的であるか、ということかがわかる。

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芥川龍之介の死

2010-10-29 23:17:48 | Weblog
芥川の死。菊池寛によると、芥川の死の動機は、芥川の「手記」に記されている「ボンヤリした不安」であって、それを疑うことは、死者に対する冒涜らしい。だが、私は、あえてその冒涜を犯す。確かに、芥川の主観では、「ボンヤリした不安」が死の動機であると、私も思う。文面からそう感じるからである。しかし私には芥川の死には、決定的な一つの大きな動機があると思うのである。その動機が、他にさまざまな苦しみを連鎖的に起こした。あるいは、その動機がなくなれば、他の苦しみも、連鎖的に良くなった可能性があると思うのである。それは。一言で言って。文学の価値観の変化だと思うのである。確かに、芥川は死の前に、神経衰弱、身内の自殺、近代文学集の印税の問題、など、様々な問題を抱えていた。しかし、もう一つ、大きな事がある。それは、谷崎純一郎と、大文学論を激しく戦わせている事である。芥川ほどの作家は、ちっとやそっとのことで死ぬようなやわな人間ではないと確信している。芥川は晩年、文学の価値が、筋の面白さ、ではなく、詩的精神の高さ、に変わっていった。そして、それを求め、書く小説も、「歯車」、「蜃気楼」、「玄鶴山房」など、筋の無い、心境小説を書くようになった。そして、川端康成は、「歯車」を、芥川の最高の作品と賛美した。いかに芥川の文学的価値が心境小説に変わってしまったかが分かる。芥川は、志賀直哉の心境小説を最高のものと見なした。それ以前にも、芥川は、佐藤春夫の詩的小説を評価する文章を書いている。萩原朔太郎に、「君は小説家であって、詩人ではない」と言われた時は、弟子の堀辰雄と、萩原朔太郎の家につめかけたほどである。確かに、「歯車」は成功だった。しかし神経質で凝り性の芥川には、志賀直哉のような虚心坦懐な文章は書けない。内容も、自分の毎日の精神的な苦しみを書くものになるだけで、志賀直哉にはとても及ばない。志賀直哉は、芥川に、一年休む事を提案したが、何年、休んだところで、芥川の気質から、志賀直哉のような小説が書けるようにはならないことは明らかだった。文章も志賀にはかなわず、内容も、自分の精神的苦しみを吐露する小説を書き続けることになるのは、明らかで、そんな事は、芥川にとっては、赤面の至り、屈辱、もはや芸術至上主義の小説家として、生きてる事が、ほとんど無意味、と判断したのだと私には思われる。どんなに学があって、教養があって、人目には、様々な奇抜な作品を書く能力があっても、本人の芥川が満足できないのであれば、学も教養も宝の持ち腐れである。そういう風に芥川は、自分の将来を見切って、絶望し、それが死を決意する結果になったのだと私には思える。

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テニスは止まって打つ

2010-10-28 01:41:44 | 武道・スポーツ
テニスは止まって打つ。
テニスは安易にオープンスタンスで打ってはいけない。
さて。テニスの上達法の考察。ラリーが続く中級者の上達法。それは。テニスは安易にオープンスタンスで打ってはいけない。ことだと思う。テニスの基本は、基本のスクウェアスタンスで、止まって、しっかり構え、後ろ足から前足への体重移動、腰の回転で打つものである。これによってテニスのスイングの時の正しい筋肉の締め方がみについてくる。腕の力で打つのではなく、腹筋、背筋の力で打つことが必要なのだ。慣れてきて、ラリーが続くようになると、横着して、少し遠い球はオープンスタンスで打ったり、ランニングショットで打ったりしやすい。つまり、教科書の図のような理想の打ち方で、打たないことが多くなりやすい。しかし、それではダメである。もちろん対処しきれないほどの遠い球や、速い球の場合は、理想のフォームで打つ事は出来ない。ギリギリとれるか、とれないかのボールは急いで走って、手首だけで打たなくてはならない時もある。これはプロでも同じである。しかし中級者程度のラリーの球は、やろうと思えば、ほとんどの球は、来るボールの位置を早く計算して、素早く其処へ行き、止まった姿勢で、理想のフォームで打てるのだ。テニスで大切な事は、テークバックを早く準備することだけではない。それは、もちろんだが、それともう一つ、意識しなくてはならない事がある。それは、ボールを打つ位置を速く計算し、理想の場所にすぐ移動して止まって打つ姿勢をとる、ということだ。そして、しっかり後ろ足から前足への体重移動によって理想のフォームで打つ。ということだ。こうすると、ワンバウンドするボールを時間に十分、ゆとりをもって打てる。理想のフォームで打つ事によって、スイングの正しい筋肉の締め方が身につく。ラリーが続くようになると、横着して少し遠い球は、オープンスタンスで後ろ足で踏ん張って、打ってしまう。しかし、これではダメなのである。少し遠い球も、打つ位置を速く計算して走り、止まって理想のスクウェアスタンスで打たなければならない。いったん、腹筋、背筋を使う正しいフォームが完成し、正しいスイングが出来るようになったら、遠い球は横着してオープンスタンスで打ってもかまわない。わかりきったことだがプロとか、選手とかの試合になると、これはもう、横着ではなく、オープンスタンスで打たなくてはならない時には、オープンスタンスで打たないと、かえってダメである。理想の止まったスクウェアスタンスで打っていたら負けてしまう。

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虫歯物語

2010-10-27 07:32:21 | 小説
「虫歯物語」

という小説を書きました。

ホームページ、「浅野浩二のHPの目次(1)」

http://www5f.biglobe.ne.jp/~asanokouji/mokuji.htm

に、アップしましたので、よろしかったら、ご覧ください。

(原稿用紙換算57枚)

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植草一秀

2010-10-26 22:51:28 | Weblog
植草一秀。植草先生は、私は国策捜査ではない、と思っていたし、今でも、かなり、そう思っている。しかし2004年4月の時は。ただ防犯カメラがあるのに、それを裁判で使わないというのは、確かにおかしい。国策捜査では権力者が狙われる。しかし。経済学者や評論家というものは、みんな政権に対して批判的なものである。別に小泉政権に批判的だったのは植草先生だけではない。慶応の金子勝先生は、植草氏よりもっと、ひどく小泉政権をボロクソに批判していた。総理大臣の発言で株価は変動するが、経済学者の政府に対する批判の発言では株価までは変動しない。私が惜しいと思うのは。植草先生の経済学的な見解に共感しているからではない。もっとも私の経済の知識なんて植草先生の千分の一もない。し、そもそも経済学者の予測なんてはずれるものである。というより、世の中は、絶えず変わっていっており、また、いつ、どんな経済に影響を及ぼす不測の事態が起こるか分からないから、予想が当たることは、そもそもあり得ない。それより、植草先生ほどの深い博識と、鋭い見解の経済学者がいれば、他の反対意見の経済学者や評論家と議論が出来る。この議論が出来るということが貴重なことだと思う。まさに弁証法の「正、反、合」でより本質を知る事が出来ると思うからだ。しかし、もし私が植草先生の立場だったら、まず植草先生と同じように国策捜査だと思っただろう。あれだけテレビに多く出て、政府に対し批判的な発言をしていれば、政府に狙われた思うのは本人にとっては当然、起こる感情だと思う。2006年9月の二回目は、尾行がついていた、とウィキペディアに書いてあったが、もし本当なら、こうなると国策捜査っぽくなる。しかし、一回目の事件の後、警察官が検察の命令で、植草先生が外出している時は、ずっと尾行をつけていたというのか。それも、不自然に思う。これは。私は、植草先生が、一回目の事件の後、やっと、ほとぼりが冷めだして2006年6月に名古屋商科大学の客員教授に就任して、好転に向かおうとしてたのを、おとしめてやろうという悪意を持った人間の悪質な悪戯のように思える。それは、一回目の事件で、植草氏が世間に幅広く知られるようになってしまったから、一回目の事件の後は電車の中では、顔を見られるようになってしまっただろう。誰がやったかといえば、検察とか、政治的意図を持った人間というより、一般人の性悪な人間の仕業のように私には思える。

さて二回目の事件では、飲酒痴漢ということになっている。一回目は、さておくとして、二回目は絶対、冤罪だと思っている。車内での位置関係がどうだったの、繊維鑑定の結果がどうだったの、という物理的なことではなく、精神面的な観点から考えてみたい。植草氏は、一回目の事件で、全てを失ってしまった。早稲田大学の教授の職も、いくつも出ていたテレビコメンテーターも。そしてマスコミでさんざん書かれ、ブログでさんざん悪口を書かれた。氏にとっては、死にたいほどの苦痛だっただろう。だから、一回目の事件の後では、氏は、痴漢行為など、考えただけでも嫌な気持ちになってしまっただろう。インポテンツになってしまった可能性もあると思う。だから、一回目の事件の後では、もう一生、痴漢行為などするはずがない。ただここで問題になるのは、氏が紹興酒をたくさん飲んでいた後で、酩酊状態だったということだ。私は酒というものを飲んだことがないので、酒を大量に飲んだ時、どういう気分になるのかは、わからない。酩酊状態で意識が混濁していたために、触ってしまったということは、あり得ることだ。しかし、もしそうだったとしても、それは過失であり、故意ではない。痴漢というものの悪質性は、ひとえに故意であるということにかかっている。故意だから、女性も不快に思うのである。しかし、故意ではなく、本人の意志ではない過失だとしたら、女性も、そんなに不快には思わないだろう。し、咎めないだろう。だから二回目は、仮に、誤って触ってしまった事が事実だとしても、(法律的にはともかく)実質的、精神面的には植草氏には、全く罪は無いと私は思う。

さらに、一回目の事件で、非常に、むかつくことがある。それは、取調べにあたった警察官である。警察官は、「ともかく認めれば、一切、公表しない」と高圧的に氏にせまった。しかし、結果は世間に知られてしまって、氏は、職をすべて失ってしまった。人生を台無しにされた。警察官は約束を守らなかったではないか。そして、人の人生を台無しにしたではないか。その責任はないのか。法的には責任は無いんだ、他人の人生が台無しになろうと、どうでもかまやしないと居直っている警察官の態度にむかつくのである。確かに、法的には責任はないのかもしれない。しかし、人道的には、ウソをついて人の人生を台無しにして、ふんぞりかえっている警察の態度にむかつくのである。ほんまに警察はむかつくわ。一体、誰が食わせてやっているというんだ。

また手鏡に関しては、氏はテレビコメンテーターとして全国に顔が出るのだから、身だしなみや髪が乱れていないよう持つ方が当然であり、持っていない人の方が少ないだろう。

また、一回目の事件で、警察官は、「ともかく認めれば、一切、公表しない」と植草氏にせまった。氏のおとなしそうな性格からして、警察官に高圧的に迫られたら、やっていなくても、毅然と戦うより、認めてしまったという可能性は十分、あり得ることだ。

植草氏は、自分の場合は、政治的意図の国策捜査にはまったと思っているようだが、それは違うと思う。検察は政界とは全くつながりがない。検察は政治的に盲目である。検察は権力者=あやしい、と思って無作為に疑惑を持つだけで、検察は日本の政治を混乱させている。

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明治憲法

2010-10-25 03:28:46 | Weblog
明治憲法は非常にエロティックである。特に、

第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スべカラズ

第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

などは非常にエロティックである。

テロティシズムとは、女の裸ではない。政治体制、宗教、思想、伝統、文化、ありとあらゆるものの中にエロティシズムはある。

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ロッキード事件

2010-10-25 02:31:32 | Weblog
田中角栄が逮捕されることになったロッキード疑惑は、実はアメリカが仕組んだ策謀という説がある。確かに、アメリカに頼らぬ石油資源を開発して、アメリカから政治的に独立しようという田中角栄の行動は、日本をアメリカに奴属させたいと思っているアメリカにとって、不快極まりないものだっただろう。

当時のキッシンジャー国務長官は、ある記者の質問、
「ロッキード事件はあなたが仕組んだのではないですか?」
と聞かれて、
「オブ・コース」
と答えている。
これは決定的な根拠のようにも一見みえる。はっきりと認めているのだから。
しかし、少し考えてみると、それは極めておかしい。なぜなら、陰謀というものは、何としても隠すものであって、「私が陰謀を起こしました」などという人間がはたしているだろうか。いるはずがない。

キッシンジャーの発言には、二つの見方ができると思う。
一つは。キッシンジャーが仕組んだ罠ではない、という見方。
ロッキード事件が起こったのは、アメリカにとって嬉しいかぎりのことだっただろう。アメリカ人はジョークが好きだから、キッシンジャーの「オブ・コース」という発言は皮肉を込めた、とても面白いジョークとみることができる。

もう一つは。アメリカは日本をなめきっていて、アメリカにはCIAという闇の政府があるから、日本など簡単に撹乱することが出来るんだぞ、という威嚇的な意図かもしれない。

ともかくキッシンジャーの発言は公的な発言ではないのだから、真実はどうなのかは、わからない。

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共謀罪

2010-10-25 00:20:04 | Weblog
「共謀罪」なんてものの発想の最もバカけた点は、ただ一つ。ある人間が、どんなに悪い事(殺人でも無差別テロでも)をしようと考えていても、その後、その人の考えが変わりうるという点だ。

人間の考えは変わりうるのだ。こんなのは当たり前である。「共謀罪」なんてものを本気で考えてる警察だか検察だかの一部の連中は、当然、頭が狂ってる。

たとえば、ある人間を、一時の感情で激怒して、「あいつをぶっ殺してやる」とわめいて、出刃包丁を懐に忍ばせて、その人の家の前まで行っても、家の前で、「やっぱり、一時の怒りにまかせてバカげた行動をしてはいない」と思い直して行動を思いとどまるということは、いくらでもあることである。柔道家の木村政彦は、まさに、それをしたのである。つまり、出刃包丁を持って相手の家の前まで行ったが、必死にこらえて思いとどまったのである。

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自殺について

2010-10-24 19:35:46 | Weblog
私は自殺を無条件に悪いものだとは思わない。自殺はその人の思想的決断だと思っている。ただ自殺する場合、死のハードルは絶対に低くしてはならない。と思うのである。死のハードルは高くなくてはならない。自殺の方法には色々あるが、もちろん苦しい死に方と、苦しくない死に方がある。しかし、それと関係なく一人で死ぬには大変な勇気がいる。しかし、そのハードルを越すことこそが自殺が思想的決断となりえることだと思う。自殺は簡単であったり、恐くなかったりしてはならないと思う。だから、死にたいけど、一人で死ぬのは怖いから、女と心中するというような事はしてはならないと思う。二人で死ぬのは、一人きりで死ぬのより、ずっと死が怖くなくなる。しかし、それはダメである。死の恐怖のハードルを低くしてしまうと、自殺が本当の思想的決断かどうかが、あやふやになってしまうと思うからだ。

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ヤクザ生徒

2010-10-23 21:51:45 | Weblog
人を外見で判断してはいけません。こんなのは当たり前の事である。テニススクールでレッスンを待ってたら、おばさん達の井戸端会議が聞こえてきた。何か、新しい生徒が入ったらしい。
おばさんA「今度、入った人、なんかヤクザみたいな人ね」
おばさんB「そうね。少なくともテニスをやるって雰囲気の人じゃないわね」
なんて会話が聞こえてきた。別にヤクザがテニスやったっていいじゃないか。と私は思った。ヤクザが入ったら、どういうレッスンになるのか。
ヤクザの生徒「おらおら。コーチ。もっと打ちやすい球を出さんかい。どついたるぞ。われ」
とかいう雰囲気になるのかと思った。それも面白いじゃないか。と思ってた。
そしたらその人が私のレッスンに入ってきた。確かに、ヤクザっぽく見える。角刈りで、恐そうな顔つきで、ウインドブレーカーも黒っぽく襟を立てている。私も一瞬、ヤクザかと思った。レッスンが始まった。しかし、その人はかなり上手い。なんだ、別にヤクザじゃないじゃないか。腰も低い。その人は、ベンチの横に置いてあった網を私に見せて、「これ。何をするものなんですか」と聞いてきた。私も分からなかった。ので、「ネズミが出るのでネズミを捕る網じゃないかな」と答えた。何の網か分からなかった。「それはボールを拾う網です」とコーチが説明した。なるほど。これは便利なものだ。と思った。では、何で今まで、その網を使わなかったのか。

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来年のカレンダー

2010-10-23 21:50:13 | Weblog
とうとう来年のカレンダーを買った。今年もあと二月。

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アントニオ猪木、対、ウィリー・ウイリウムス

2010-10-22 05:06:59 | 武道・スポーツ
アントニオ猪木が異種格闘技で色々な格闘家と戦った。
ウィリー・ウィリアムスとの戦いが一番、大きな戦いだっただろう。あれは、引き分けになってしまった。しかし、あれはウィリーの戦い方の間違いである。
一言でいって、ウィリーはアントニオ猪木に勝てたのである。
ウィリーは、遠くの間合いから、明らかに、相手にとどかないとわかる蹴り、や、連続技を出している。観客が見ているから自分の蹴りを観客に披露したいという邪念が入ってしまっている。これが、まず第一の誤り。格闘においては、そういう雑念は一切、捨てなければならない。第二の誤りは。ウィリーは、自分が空手家だから空手のパンチとキックによって空手の戦い方によって戦わなければならないという固定観念を持ってしまっていることである。これが第二の誤り。自分が空手家だからといって、パンチとキックだけで戦わなければならない義務など全くない。ウィリーほどの体格と体力があれば、別に普段、つかみあいの戦いをしていなくても猪木に飛びついて、猪木をつかまえることだって出来ただろう。つかまえてしまえば、もうウィリーのものであり、膝蹴り、や、肘打ち、頭突き、などで効果的に猪木にダメージを与えることが出来たはずた。こういうふうに戦いに雑念が入ってしまったり、自分が空手家だから、空手の戦い方で戦わなければならない、という変な固定観念を持ってしまったから、実力的には猪木に勝てたのに、引き分けになってしまったのである。蹴る時は、明らかに当たらない間合いから蹴るのではなく、確実に蹴りが当たる間合いまでつめて、蹴らなくてはならない。しかし、そうすると見栄えが格好良く見えないから、映画みたいな、相手に当たらない遠くの間合いから蹴っているのだろう。これは、観客に格好いい蹴りを見せようという雑念によってしまっている。こういうファイターを機械的ファイターという。

一方、ブルース・リーは映画では、見栄えが良くなるよう、遠くの間合いから蹴りを出しているが、本当の格闘となれば、一切の雑念や固定観念を捨て、敵にダメージを確実に与えられる最も有効な攻撃を一瞬の内に反射的に選択する。それが地味であっても、そんなことは全く念頭にない。つまりブルース・リーがよく言う、「考えるのではなく、感じている」のである。こういうファイターを頭脳的ファイターという。

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最強の格闘技は何か?

2010-10-22 02:51:10 | 武道・スポーツ
「最強の格闘技は何か」という疑問の一文がある。これは全くナンセンスな文である。フルコンタクト空手が最強だ、という人がいる。これもナンセンスな考えだ。しかし世間では、フルコンタクト空手が最強と思われている節がある。しかし。もしも、ウェートが同じ人で、同じ期間、フルコンタクト空手を訓練して身につけた人と、アマレスを訓練した人が、ルール無しの戦いをしたら、アマレスの人の方が勝つ可能性が十分ある。と思う。空手は敵と密着しては戦えない。密着していはパンチもキックも出せない。ある程度、離れた距離がなくては戦えない格闘技である。アマレスは相手と取っ組む格闘技である。特に、正面よりバックをとろうとする。アマレスの選手は訓練によって非常にすばしっこく動ける。また、相手を取り押さえた場合、腕力と技術によって相手を動けなくして固めてしまうことが出来る。さて、空手の選手では、アマレスのこういう訓練をしていないから、相手をつかむ、すばしっこさも無いし、取り押さえた相手を、動けなく固めてしまう腕力も技術も無い。だから、空手は、つかまえられてしまったら、もうおしまいである。

勿論、アマレスの選手は、柔道のような投げ技、崩し技、関節技の技術は無い。だからアマレスが最強の格闘技とも言えない。結論から言えば。わかりきったことだが、一人の人間が、空手とアマレスと柔道の三つを身につけることは出来る。倉田保昭がいい例である。氏は、空手と柔道と合気道の三つを完全にマスターしている。映画のアクションでは、キックとパンチの戦いが見栄えがいいから、柔道や合気道は使っていないだけである。またボクシングも、最もケンカに近い格闘技である。空手とボクサーが戦ったら、ボクサーが勝つ可能性は十分ある。

だから「最強の格闘技は何か」という疑問の文はナンセンスであって、「より多くの格闘技を身につけている人が最強の格闘家である」というのが正解だと思う。ただ、人間は時間の制約の中で生きている。よほどの格闘技マニアでない限り、世の全ての格闘技を身につけることは時間的に不可能である。だから「ある一つの格闘技だけを身につけて戦うとしたら、最強の格闘技は何か」というように、言葉を足せば、それはナンセンスではなく、立派な疑問の一文となる。

ブルース・リーは、映画では、パンチとキックを主武器として戦うファイターのように見えてしまう。しかし、それは映画で見栄えが良いからしているのに過ぎない。「燃えよドラゴン」のオープニングで、サモ・ハン・キンポーと少林寺で戦うシーンがあるが、あれこそがブルース・リーが本当のケンカになった時に戦う戦い方だと思う。あの戦いでは、ブルース・リーはキックは低い蹴りを二回しか出していない。ボクシング的なパンチと相手の腕をとって合気道的な投げ方をして、最後は関節をきめている。

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鬼コーチ

2010-10-22 00:39:29 | 武道・スポーツ
市民体育館で、3百円で、一日、マシントレーニングをする事が出来る。ここは、体の全ての筋肉を鍛える色々なマシンが、ほとんど全部、揃っている。最近は、二時間とか、時間を決めて、有効に出来るようになったが。前は、続かなかった。それは、一人でやるトレーニングだから、疲れて休みたくなったら、いつでも休めてしまうからである。これを続けられるようになる有効な方法は一つ。鞭を持った鬼コーチに監視される、ようにする事である。マシントレーニングには、別に技術など必要ない。必要なのは、本人の続ける意志だけである。だから意志薄弱だと、マシントレーニングは続けられない。それを克服するには。鬼コーチの存在が必要なのだ。「ダンベル100回やれ。出来なかったら、ぶっ殺すぞ」とおどす人間の存在が必要であり、また、そういう人がいてくれれば、マシントレーニングは続けてやることが出来るのだ。そうすればボディービルダーのような肉体になることも出来るのだ。しかし、現実には、そういう人はいない。だから、金、払ってアスレチックジムに通うのだろうか。会員制のアスレチックジムには、そういう、鬼コーチがいるのだろうか。しかし会員制のアスレチックジムで、会員に、「ダンベル100回やれ。出来なかったら、ぶっ殺すぞ」という指導員がいる光景は想像できない。一体、どうなっているのか?

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東大理科Ⅲ類

2010-10-21 04:26:34 | 医学・病気
東大理科Ⅲ類。日本で一番、偏差値の高い大学は、言うまでもなく、東大理科Ⅲ類(医学部)である。文科系と理科系では、難易度が比較できにくいが。それでも、東大理科Ⅲ類は、はっきりと東大文科Ⅰ類より、遥かに難易度が高い。東大理科Ⅲ類は、いわば理系人間で日本でトップの、頭のいい人間の100人目までが行く所である。
だから東大理科Ⅲ類に入れる学力のある人は、医者になりたいと思ってなくても入らなければ、もったいないと思う。入らないのは、宝石をゴミ箱に捨てるようなものだと思う。オレは日本一、頭がいい。オレ様は、世の勝者であり、世間の脚光を浴びる資格のある人間だと思う。だから受験する。しかし、医者になって、やっと医者の現実を知り絶望する。なぜといって、医者ほど、世の裏方である仕事はないからである。医者は、患者の奴隷なのである。治して当たり前であり、誤診したり、手術が失敗したら訴えられる。そもそも世に何の功績も業績も名前も残らない。あるのは、ただただ単調な、同じ事の繰り返しの毎日である。しかも過労死するほどの重労働である。壊れた物を直すという点で医者は、自動車修理工と同じである。直して当たり前であり、直せませんでは、すまされないのだ。さらに自動車修理工の方が、はるかにマシである。なぜなら、自動車は直せなくても、訴えられることはない。直せなかった場合は、金を返せばそれですむ。自動車は買い替えることが出来るからだ。しかし、人間の体は、買い換えることが出来ない。人間の体は自動車と違って金では買えない、かけがえのない大切なものだからである。車では、エンジンが壊れていたら、エンジンを取り換えればいい。拒絶反応というものは起こらないのである。しかし。人間の心臓が壊れたら心臓は取り換えることは出来ないのである。他人の臓器を移植すると、拒絶反応というやっかいな事が起こる。何と医学のやっかいなことか。しかし医者は治せなかったでは、すまされないのである。医者の有利な点は何かといえば。大学に入学した直後の最高の快感。世間で、「医者」とか「東大医学部卒」という肩書き。くらいなものである。だから肩書きにしがみつくしか他に満足感を得る方法は無いのである。そして、肩書きにしがみついている人間というのは、例外なくダメになっていくのである。

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