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まち歩き北1081 西村家庭園 上賀茂神社 社家の庭園

2019年09月28日 06時09分26秒 | 名園

 

 

 

西村家庭園

西村家庭園は、上賀茂神社の社家であった錦部(にしごり)家の旧宅の庭園であり、明神川から庭園内に水を導入し再び川に戻すというこの地域の社家庭園特有の水利用形式をとっている。もっとも、他の社家庭園では、導入した水を池とする例がほとんどであるが、この庭園では幅広い二筋の遣水としており、軽快な印象を受ける。また、庭園の一隅にある深さ1メートル余りの円形のくぼみは、水垢離(冷水を浴び身体のけがれを去ること)の場として用いられたものとみられ、この庭園の特色の1つとなっている。更に、上賀茂神社の御神体山である神山(こうやま)の降臨石をかたどったと伝えられる石組みも、社家の庭園らしい。

このように、西村家庭園は、上賀茂の社家庭園ならではの意匠を持つ貴重なものである。

西村家社家庭園は、上賀茂神社 18代目の神主(現在の宮司)である藤木重保が作庭したものと伝えられています。藤木重保とは、千載、新古今、玉葉、風雅などの勅撰和歌集にも作品が収録されているほどの歌人としても活躍した人物です。

 

 

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修学院離宮 

2015年12月05日 07時52分34秒 | 名園

 

この離宮は後水尾上皇のために徳川幕府が造進した山荘で、はじめ修学院の御山荘または御茶屋と称した。上皇は幕府の公家勢力圧迫の政策を不満とし、寛永6年(1629)34歳で退位し、退隠の場として山荘の地を求めてしばしば洛北の地を御幸された。承応4年(1655)修学院村の円照寺で景観に感動され、円照寺を奈良に移し、山荘造営に至った。工事は上皇60歳の明暦2年(1656)頃から開始され、3年後の万治2年(1659)3月にほぼ完成した。はじめ上下2ケ所からなり、上皇自ら設計・監督されたといわれる。上皇はこの山荘を愛され、延宝8年(1680)8月、85歳で崩御されるまでたびたび御幸された。崩御後は荒廃がすすんだ。その後、享保6年(1721)霊元法皇の臨幸によって修理され、文政7年(1824)光格上皇臨幸の際に幕府によって復興された。明治17年(1884)離宮となり、翌18年それまで林丘寺にあった客殿と楽只軒の返還をうけて「中の茶屋」が設けられた。庭園と建物を中心とした上・中・下の3つの茶屋にわかれている。

 

 

入口で

 12月5日 撮影 画像追加   手入れ

 


渉成園・枳殻邸

2015年09月30日 00時24分50秒 | 名園

 

 

 

渉成園(枳殻邸)

東本願寺の飛地境内地(別邸)で、国の名勝に指定されています。

石川丈山がつくりあげた広大な池泉回遊式の庭園に、四季折々の見どころが散りばめられています。

梅、桜、新緑,スイレン、紅葉、鴨の赤ちゃん

 この地は、平安時代前期(9世紀末)の左大臣源融(みなもとのとおる)が

営んだ六条河原院の旧蹟という伝承があったことから、

庭園の随所に源融にちなんだ景物が趣向として配されています。

しかしながら、現在は七条坊門小路以北、万里小路(までのこうじ)以東であることから、

河原院との関係する説が出されています。

渉成園は創立以来幾度かの火災に遭い、

現在の建物は1864年(元治元年)の蛤御門の変による炎上以後、明治時代に復興されました。

1936年に国の名勝に指定されました。

 

 

高石垣 に 驚きました

どの部分が いいかなぁ

 

 

 

 

 

いかがでしたか

南門

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