拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

   魔境

2024年05月17日 | 東洋自分なり研究所

  これまで、『禅』や『禅修行』について実際に体験した事、同時期に読んだ『禅書』などから学んだ事などを織り交ぜてこのブログに書いてきたが

  『魔境』と呼ばれ、修行中に『道』から外れた境涯を不正と見抜けず信じ込んでしまう状態、避けなければいけない状態・・・についてはまだ書いたことがない。

 

  *ウィキペディアによると〜

  『魔境(まきょう)とは、禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態で、意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを崩した状態のことを指す。』

 

                 

                  私も『自殺志願者が線路に飛び込むスピードで』青春の門を駆け抜けたのだろうか・・・

 

 

  私の禅修行中、老師や居士林の和尚から『魔境』についての注意というのは、聞いたことがない気がする・・・。

  実際『魔境』というのはある程度、修行が進んだ者が陥るようなので、居士林での修行ではそういった心配はいらなかったのかもしれない。

  その頃、私は手当たり次第に禅書を読み漁っていたが、時折『魔境』について注意を促す禅僧の本があり、『仏様や菩薩を観た…などというような

  ことがあったら、幻想に過ぎないので一切取り合うな』・・・というような趣旨であった。

  もっと古い禅語録には『菩薩だろうが、如来だろうがそんなものは、棒でぶっ叩け!』などという表現で激しく、厳しく『魔境』を戒めている。

  私も一人で坐っている時など、暗闇で坐っていのに、灯りに包まれている感覚は何度もあったし、思いもしない『言葉』がふと『降りてきて』

  その『言葉』の意味が解った・・・などと言うことが何度かあったが、『魔境』の教えがあったので、深入りせず、取り合う事もなかった。

 

  伝統仏教としての『禅』には、老師という長年に渡って修行してきた指導者がいる点が、なにより素晴らしい所で、昨今『悟り』を口にして

  促す人々(私もその一人であるが)がYoutubeなどを見ると増えているが、禅でいうところの『魔境』に陥ってしまう危険性はどうだろう・・・。

 

  『魔境』についてググった時、『野狐禅(やこぜん)〜禅宗において、禅に似て非なる邪禅のこと。』の単語と共に

  『野狐禅』という(1999年結成〜2009年解散)二人組のフォークバンドの歌にであった。

  グループ名によくぞ『野狐禅』などと命名したものよ・・・と関心したが、それだけの値打ちのある『歌』であった。

 

  変なタイトル 『自殺志願者が線路に飛び込むスピードで』 の一番の歌詞だけ掲載

     「せっかく空を自由に飛べるようにこんな立派な白い羽根がついているのに こんなところに迷い込んできたら意味がないじゃない バカだねぇ」

      君はそう言うと 便所の小窓を開け ふわふわ白い羽根のついたタンポポの種子を そっと逃がしてあげるのだった

      ケツをかきながら 隣に突っ立っている 僕を見つめて 「あんたも同じだよ」と 僕の睫毛についた目ヤニを指で弾いた

      ナメクジみたいに君の体を這う毎日

      自殺志願者が線路に飛び込むスピードで 僕は部屋を飛び出しました

      目に映るものすべてをぶっ壊してやりたかったけど そんな時でも 一番お気に入りのTシャツを着てきた自分がバカバカしくて...」

  

  

                                                                                                    野狐禅 「自殺志願者が線路に飛び込むスピード」 Music Video