十勝の活性化を考える会

     
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「教育」知里 幸恵

2019-05-11 05:00:00 | 投稿

知里 幸恵

 


(ちり ゆきえ、1903年(明治36年)6月8日 - 1922年(大正11年)9月18日)は、北海道登別市出身のアイヌ人女性。19年という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ民族・アイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。

 

生涯
1903年(明治36年)6月8日、北海道幌別郡(現・登別市、札幌市から南へ約100キロ)に生まれた(父・高吉、母・ナミ)。6歳で旭川市の伯母のもとに引き取られて尋常小学校に通学した。最初は和人の子どもと同じ学校だがアイヌ人のみの学校設置がされて学業優等でアイヌ人の尋常小学校を卒業した。 

旭川で実業学校(旭川区立女子職業学校)にまで進学している。アイヌ語も日本語も堪能で、アイヌの子女で初めて北海道庁立の女学校に受験するが不合格になった。『優秀なのになぜ』『クリスチャンだから不合格となったのでは』と言う噂が町中に飛び交った。幸恵の祖母・モナシノウクはユーカラクルであった。すなわちアイヌの口承の叙事詩“カムイユカラ”の謡い手だった。カムイユカラは、文字を持たなかったアイヌにとって、その価値観・道徳観・伝統文化等を子孫に継承していく上で重要なものであり、幸恵はこのカムイユカラを身近に聞くことができる環境で育った。

言語学者の金田一京助が訪れたのは、幸恵が15歳の時であった。金田一京助の目的はアイヌの伝統文化を記録することであった。幸恵は、金田一が幸恵の祖母たちからアイヌ伝統のカムイユカラを熱心に聞き記録に取る姿を見て、金田一のアイヌ伝統文化への尊敬の念、カムイユカラ研究への熱意を感じた。幸恵はカムイユカラをアイヌ語から日本語に翻訳する作業を始めた。やがて、カムイユカラを「文字」にして後世に残そうという金田一からの要請を受け、東京・本郷の金田一宅に身を寄せて翻訳作業を続けた。

幸恵は重度の心臓病を患っていたが、翻訳・編集・推敲作業を続けた。『アイヌ神謡集』は1922年(大正11年)9月18日に完成した。しかしその日の夜、心臓発作のため死去。19歳没。

金田一京助は戦後、アイヌの同化政策に協力したとして批判を受けたが、最近になり再評価が進み、京助がいなければアイヌ語は残らなかったかもしれないとも言われている

『ウィキペディア(Wikipedia)』


アイヌ神謡集
知里幸惠編訳

            序

 その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀さえずる小鳥と共に歌い暮して蕗ふきとり蓬よもぎ摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,宵まで鮭とる篝かがりも消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,円まどかな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく.
 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて,野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ.僅かに残る私たち同族は,進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり.しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて,不安に充ち不平に燃え,鈍りくらんで行手も見わかず,よその御慈悲にすがらねばならぬ,あさましい姿,おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名,なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう.
 その昔,幸福な私たちの先祖は,自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは,露ほども想像し得なかったのでありましょう.
 時は絶えず流れる,世は限りなく進展してゆく.激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも,いつかは,二人三人でも強いものが出て来たら,進みゆく世と歩をならべる日も,やがては来ましょう.それはほんとうに私たちの切なる望み,明暮あけくれ祈っている事で御座います.
 けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語,言い古し,残し伝えた多くの美しい言葉,それらのものもみんな果敢なく,亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか.おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います.
 アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は,雨の宵,雪の夜,暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました.
 私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば,私は,私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び,無上の幸福に存じます.

  大正十一年三月一日

知里幸惠

 

       梟の神の自ら歌った謡
     「銀の滴しずく降る降るまわりに」

「銀の滴降る降るまわりに,金の滴
降る降るまわりに.」という歌を私は歌いながら
流に沿って下り,人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になっていて,昔のお金持が
今の貧乏人になっている様です.
海辺に人間の子供たちがおもちゃの小弓に
おもちゃの小矢をもってあそんで居ります.
「銀の滴降る降るまわりに
金の滴降る降るまわりに.」という歌を
歌いながら子供等の上を
通りますと,(子供等は)私の下を走りながら
云うことには,
「美しい鳥! 神様の鳥!
さあ,矢を射てあの鳥
神様の鳥を射当てたものは,一ばんさきに取った者は
ほんとうの勇者,ほんとうの強者だぞ.」
云いながら,昔貧乏人で今お金持になってる者の
子供等は,金の小弓に金の小矢を
番つがえて私を射ますと,金の小矢を
私は下を通したり上を通したりしました.

 

 

「十勝の活性化を考える会」会員 K


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