冷たい荒海に投げ出されて、何時間経ったのだろうか。
東の空が白々と明けてきた。
あけぼの丸のロープを抱きしめる耕一の意識が、次第に薄らいで行く。
《このまま眠れたら楽になれる・・・・》
耕一は、薄れる意識の中でそう感じていた。
耕一の手からロープが離れた。
耕一の身体があけぼの丸から離れた。
意識を失った耕一の身体が、冷たい海を漂って行く。
漂うその男の姿を、昇る朝日が照らし始めた。
その時、潮の流れが少しづつ変わってきた。
日の出の動きに合わせるように、潮の流れが変わったのだ。
穏やかになった海原を、耕一の身体が陸に向かって流れ始めた。
襟裳岬に近い広尾の浜に、耕一は打ち揚げられた。
その浜には、既に数名の遭難者が流れ着いていた。
浜の漁民達が、流木を積んだ焚き火をあちこちで燃やしながら、救助活動を行っていた。
「おーい! 若いの、しっかりしろ!」
身体が冷えきり、唇が紫色に変色した耕一を、毛布を持った漁師が抱きかかえた。
だが、意識を失った耕一の身体の振るえは止まらない。
漁師は、焚き火の近くに耕一を運んで、彼の身体を温めようとした。
その様子を見ていた漁師の女房が叫んだ。
「ダメだよ! 火で急に温めたら死んじまうよ!」
女はそう云うと、着ていた自分の衣類を脱ぎ捨て、上半身裸になった。
そして、耕一の上半身も裸にすると、その身体を抱きしめて毛布をかぶった。
自分の身体の温もりで、耕一の冷えた身体を温め始めたのだ。
やがて耕一は、気持ちの良い人肌の温もりの中で意識を取り戻した。
最初に目に映ったのは、真っ赤に燃え上がる炎であった。
あたり一面、紅色(くれない)の世界だった。
強運の男が、死の淵から生還した瞬間であった。
昭和23年9月中旬に関東地方、三陸地方そして北海道東部を襲ったアイオン台風は、死者512名、行方不明326名という記録的な犠牲者を出した。
この時、あけぼの丸の乗組員10名のうち、5人が行方不明となり帰らぬ人となった。
あの正一も、荒波の中に消えたまま、二度とその姿を見ることはなかった。
続く・・・・・・。