サンチョパンサの憂鬱

逃亡者

随分前に高野悦子(二十歳の原点)さんについて書いた事があった。

学生運動には遅れて来た少年だった僕は彼らの思想的背景については余り理解していない。惹き付けられたのは『その一途さ』だった。恋にも運動にもストイックに脇目も振らずに突進して行くその姿勢だった。

殆どの若者達が不利になっていく情勢を横目に眺めながら上手く『普通の学生』に舵を切って行く……。
そんな空気の中に在って連合赤軍等の過激派の連中は上手く順応出来ずに煮詰まって行った様な気がする。

自殺を選んだ高野悦子さんも奥浩平さんもそんな中の一人だったんだと思う。

純粋なのか?幼稚なのか?未成熟なのか?……兎に角、彼等はヒヨル自分を許さなかったのか?許せなかったのか?……結果、自分の置かれた座標軸を見失ってしまったのだと思う。

遅れて来た少年の僕達世代から下の世代になるに従って、物事に取り組む熱が上がり切らなくなって行った様な気がする。
演る前に、考えてしまう。老人の様に計算をして簡単に取り組みを放棄する。

彼等は挫折したけれど……僕達は『挫折すら出来ない人種』になったんだど思う。
本気に求めないのだから挫折もない。痛みもない。後悔するほど努力も積まない。

そんなコンプレックス故に、彼女に惹き付けられたのだと思う。
独立してカネを追及する生き方に入ったけれど……かなりの欲深ながらカネはそこまで自分をストイックに惹き付けてはくれなかった。

金によって随分アカラサマな手のひら返しをする人間を数多く見たし、実際に被害も受けた……哀しくはあったけれど憎悪をたぎらせる程の存在感はそんな人達には無かった。

学生運動の世代の人の大半も器用に難題をかわし自分から逃げた。
僕達は戦う事もなく、自分の欲望を消す事に専念して自分から逃げた。

やる前からの断念の術を使い、傷付く事を避け続ける生き方は無事ながら自分に何も残さない。
だからなのか?自分の子供に過干渉して自分の代理として戦わせたがるのだろう。

親離れ、子離れが余りに下手過ぎるのである。
幾ら子供を自分の生き甲斐の代理人に仕立てたって得るモノは何もない。

結局、何処かで自分の心を正面から受け止め、某かに立ち向かわせない限り、救い様のない不完全燃焼は続く。
そして生きる程に、自分の正体を見失っていくのだろう。

壮年の教師や校長先生、教頭先生といった立派とされる人間が未成年に対して淫行を働くなんて事件が頻発するのは……そんな『心の飢餓感』がその人を責め苛(さいな)むんだと思う。

人間の業として……人は切実に本当の自分を感じたいんだと思うのである。
それでも……何一つ自分の本当を知らずに死ぬよりは救いがあるかも知れない?なんて感じるのである。

例え、それが淫行なんて唾棄したくなる様な自分の汚さであろうと、自分を何一つ知らないよりは救いがあるんじゃね?……なんて思うのである。

だって死ぬ事に失敗した人はいないのである。その救済が必ず訪れるのだから……。
自分の死後から自分を俯瞰すれば、如何にカッコ悪くたって本当の自分を味わったモン勝ちなんじゃね?って……。
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