それは人に対する信頼であり信用である。
何の疑問なく過ごせば無尽蔵に力をくれるものだけど……人多くこれを疑い自ら疑心暗鬼の蟻地獄へ赴くのである。
ただ信じ委ねておけば良いものを不安となり、故に試して確認したくなる。
客観的に観れば、その時こそ自分が相手の自分に対する信頼を犯し裏切りの入り口に立っているのである。だから揺らぎ試し確認したくなるという運びだ。
その俗的な試みによって、無限にピュアなるモノが下らない世俗の玩具となり、試した人は下劣な我が心に見合う状況を迎える事になる。
決して天秤になぞ乗せてはならなかったモノを世俗の計りに乗せ愚弄した人は、稀有な精神的結び付きを失い狼狽する。
狼狽して尚、その破壊の張本人の自分を認めない。
そしてこう言う……私が試したんじゃなく、貴方によって試さざるを得なくさせられたのだ!……と。
その人はそこで完全に鬼となる。相手の不実を並べ立て必要なら幾らでも捏造まで行う様になる。
斯くして、心的結束は、世俗の駆け引きの具と化して目も当てられない醜悪なモノへと変貌するのである。
疑い試した?という大罪は如何なる理由を幾万以てしても購えない。だから幾ら自分の正当性を唱えても空腹は収まらず空腹は増すばかりという餓鬼道へまっしぐらとなる。
疑われ試された人もまた底無しの虚しさに襲われるけれど……通すべきモノを全うしたという事実によって世俗の海から何とか這い上がる事が出来る。
人に懲りるか?否かの葛藤を抜け、それでも人を信じなければと前を向かんと欲するに至る……。
人を信じ切れるか否か?……それは相手にあらず……自分の心との真剣な対話と葛藤によって決するのだと思う。
一度溢れ落ちた信頼という水……覆水は盆に返る事は……ないのだから。
試し確かめ様とした瞬間に失われるモノ。
そんな儚くもあり、時には奇跡さえ起こす強くもあるのが人間同士の間に生まれる信義というモノなのである。
『演られる前にやる!』……この刹那にして取り返し様のない、疑心暗鬼が作り出す鬼の心は『メイド イン ジブン』なのである。
疑い、検証し、確認しなければならないのは相手に非ず。自分の心をこそ問い直す必要あり!なのである。
『刹那的瞬間芸』ばかりを上達させてきた僕達は……ここら辺で『自問自答』という大人の思考方法を本気で身に付けなきゃね?って最近とみに感じるのです……。
信頼って、疑心暗鬼で試して弄べるほど、そこいら中に転がっているモノではないからである。