サンチョパンサの憂鬱

待ち伏せるか?待ち惚けとなるか?

期待して待つ人、働き掛ける人、人には二種類ある。
待ち惚けを食らう人と待ち伏せをする人だ……とはある作家がエッセイの中で言ってる事だけど……。

何かの望みとか狙い目がある。
その為に自分で出来る事があるのに手をこまねいて何もアクションを起こさない?……そんな人は待ち惚け派。

自らが行動して出来る事は手を打った後に……自分ではどうしようもない要素は時の流れに任せて待つ……そんな人が待ち伏せ派なんだろう……。

待ち惚け派の人は横着なのか?

と言えば決してそんなことはない。
臆病な人が多いんだと思う。良い結果は欲しいけれど……報われない事が怖い?となって金縛り状態から無為に時間を失っていくんだろうと思う。

何であれ……選択した手法と結果がその人なのだという事だ。
世の中の人は皆が心理カウンセラーじゃない。対する人の内面の心の弱気なんぞに頓着する事はないからだ。

待ち惚けに陥る人は総じて自意識過剰な人が多い。
『この私が?自分からお願い?……』なんて事ばかり気になって自らの本意は二の次なんて事になる。

自意識過剰は過剰防衛の態度を取らせる。惨めになる位なら何ーんもせんとこ!となるのだろう。
結果……何も得るものなく何も失う事もなく?となる。

よく考えれば……その人は自分の願いを失い続けている訳だけど……それは自分しか知らない。だから知らん顔してれば無事に日々は過ぎていくって訳だけど……。人知らずとも自分はそれを知っている訳で……結果何時も寂しそうな顔をしている……という運びになる。

それはオコチャマの様な態度であり、やれる事はやってから悩む……というのが最低限度の自立した大人の態度だと思う。
自分の望みを実現する為に生まれ生きているというのが人間の大前提だからである。

待ち惚け派は……人間の根源的な意味を得られないまま……日々の寂しさをSNSなんかで代用しようとする。
だから……ネコチャン一匹で何処か?大上段な大騒ぎになるんだと思う。

巷のSNSで、事細かな『大袈裟』が氾濫してるのはそんな待ち惚け派の大人が如何に多いのか物語っているんだと思う。

自分の本意とか本心に代わりが務まる代用品は無いのですよ!……。
代わるものなしだからこそ、自分である意味がある。
願いとはその時々の自分そのものなのだから……。

何か欲しい!と願う。
そな十回の内の一回だけ……自分を追い詰めて試して欲しいと思う。
その一回だけで随分とドラスティックに状況は変わるのである。

自分の願いは……今の自分を打破する核心を突いているからである。
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