サンチョパンサの憂鬱

会話にも品質ってものがある

人は、話す事に期待する。

全部が全部って事じゃないけれど、こと対人関係の心情に於いて……わざわざ話さなければならない人は、結果として話しても理解し合える事などない。

話す行為には必ず意図が混入する。それは微妙なニュアンスとして影響を与えようとするものだ。
『感じる事』をもっと評価した方が良いんだと思う。

音の様にしか感じない言葉、面白くない絵本を読み聞かせされてる様な違和感、そんなものを感じるならその話は事の本質を伝えていない。さっさと打ち切るのが賢明だ。

感覚……自分のモノでありながら、とてもあやふやで頼りなく感じるけれど、会話の確認なんかより余程、真実を掴まえているものなんである。

言ってくれなきゃ分からない!……おバカな奴がよく口にする常套句だけど……。

わざわざ口にする様な話じゃない、……とっくに感じ取っていなければならない話なのに……わざわざ言質(げんち)を取らなきゃ安心出来ない?……そんな人間は感度が悪いのである。

感度が人間界の水準を下回る人間は、必ずそういう難癖を付けるのである。

『教えて貰ってない!』、『聞いてない!』、『そんな事になるとは思わなかった!』……そこまでの人生で『感じ取っていて当たり前』だから教えない。言わない。お前さんなんかの予想で責任ある仕事を仕切るなよ!ってな話なのである。

よく、教える側の落ち度として語られるけれど……学ぶ側の論外の水準を看過しておいて無責任な理解者振りではある。

猿の要求に合わせてたら、猿回しは永久に出来ないのである……。

話し合う……というのは『共通の理解・フォーマット』あって成り立つものだ。いわば智恵の交換作業の段階で初めて有効なものになる。

提供すべきモノ持たずして一方的に貰いたがる人多く……そんな場合会話は成り立ってないのである。
それは単に『音の応酬』に過ぎない。

感じ取るっていうのは相手の人間性だけじゃなく……『相手の状態、環境、レベル』含めてである。
その感覚で受信した情報に違和感というノイズを感じたら撤退しなさい!である。

我慢した積もりで強引に進めたら、必ずそんな人は大きな加害を生みながら必ず被害者になるからである。

そして、自分は無理を強いる加害者に仕立て上がるのである……。
『会話にも品質』ってモノがあるのである。
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