Yahooニュースで宮台真司氏の記事を見付けた。
前編でヤマザキマリさんの意見を例に、見たいモノしか見ない。許さないという不寛容社会について書いた。
宮台真司氏は全く同様の社会の病巣を見抜き……生活社会とネット社会との対比から分析している。
余りの偶然性に少々興奮しながら読んだ。
※〜※参考文献 Yahooニュースより抜粋、宮台真司氏の分析
※……「恋愛のつまみ食いで終わりがち」マッチングアプリで出会った男女が長く続かない根本原因
【宮台】思わず動いて、困っている相手を助ける。それで相手が喜んでくれ、そのことに自分も喜びを感じる。同じく、自分が困っているときに相手が助けてくれる。それで自分が喜びを感じ、それを相手も喜んでくれる。そういう喜びは、相対的な快楽というより、絶対的な享楽です。至上の悦びです。
でも、ネットコミュニティの人間関係ではその悦びが得られません。だからネットコミュニティが拡大すれば、人間関係の悦びを知らない人が増えます。
すると、何が起こるでしょう。人は他者との関係を、プライベートを含めてコストパフォーマンスだけで測るようになります。だから、人間関係において生じる面倒くさいことやわずらわしいことを回避するようになり、対人能力の退行や未発達も進みます。
その結果、人間関係から生じるノイズをますます怖がるようになり、ネットコミュニティのつまみ食い的な人間関係にますます依存する、という悪循環に陥るわけです。
このことは、実はネトウヨやオルトライトの増加という現象とも関連します。ネットの特徴は「見たいものだけを見る」ことです。外国人や移民を排斥している人は、自分と同じ主張を持つ人をネットで簡単に見つけられます。
もしその相手が隣にいれば、その佇まいから、ただの「あさましいクズ」であることがわかるでしょうが、ネットでは「見たいところしか見ない」から、クズたちが、ヘイトだけをフックに軽々とつながれてしまうのです。
■「感情が壊れた人間」が次々と生み出されている
改めて、生活世界とシステム世界の人間関係を対比します。生活世界の人間関係は、価値合理的・コミュニケーション的で、コミュニケーション自体に価値を認めるコミュニカティブなものがメインです。
他方、システム世界の人間関係は、目的合理的・道具的で、人間関係は何かの手段です。つき合う相手は、道具として役立てば誰でもいい。性欲を満たすとか、さびしさをまぎらわすとか、暇をつぶすといった目的を果たすために、人間関係を使います。
実際、ネットコミュニティにおける人間関係の空洞化は、「生活世界が縮小したがゆえに、システム世界がプライベート領域をも侵食しつつある事実」を表します。こうした変化は1990年代後半から始まっていて、この過程を「3段階めの郊外化(ネット化)」と呼んでいるのです。
こうしたシステム世界の全域化は、秋葉原事件の加藤智大や『黒子のバスケ』事件のWのような感情が壊れた人間を生み出すだけでなく、ふつうの人たちの感情も劣化させます。というのも、システム世界の全域化が進むと、人と一緒にいるための感情が不要になるからです。そういう感情を育て上げられることもないし、使うこともなくなります。
その状況がさらに進行すると、人々はそれぞれのライフスタイルによって分断され、自分と異なる価値観を持つ人たちのことを理解しなくなります。すると、何がノーマルで何がおかしいのかという感情の標準もあいまいになり、人間のまともなあり方についての合意ができにくくなります。それが3段階めの郊外化が
もたらしている現実です。……※
何時ぞやの昔…何十万曲から選び放題というネットの拡がりに自然人は『ついて行けない?』から『お好みのエリア限定』にしてソコに『専念』する様になる。
この現象は却って『情報がタイト化する』んじゃね?って書いた事があった。
今、ソレが現実になりネットによって作り上げられた『私の志向オンリー人間』それぞれが自然人生活ネットワークのコミュニケーションから置いてきぼりの迷子となっている。それは決して穿った見方じゃなく、ネットにも『功罪半々あった』という事の『負の面の現象』なんだと思う。
先般書いた…『義務教育レベルの一般常識』が不完全過ぎ、知識のバランスを著しく欠いた学生達について書いたけれど……『解る事しか解らない』、自分には『知らない事・解らない事がある』ことを知らない人間に仕上がってしまっていると書いた。
コレは『見たいものしか見ない』情報収集方法によってもたらされたものだと思った。
知識はぶつ切り、好きな分野の事だけエラく熱を入れて語り出す。
人間社会全般の知識の骨格を持たない?…言わば『分母を持たない分子だけの知識』が頭の中を漂っている様な状態に陥っている……。
何事もバランスなんだと思う。
利便性故に拡がるネット社会も必要。
しかし自然人として生活社会に身を置かねばならない事も必然……。
自然人のコミュニケーションから生じる行違いを『単にノイズ』としてしか処理出来ない不寛容な若い人間達に予想される難題山積の未来……。
どんな助け船を出せるのか?
本気で取り組まなきゃ……近未来に信じられる生活社会の常識は木っ端微塵となるんじゃね?
両氏の見解に触れてそんなニュアンスを強く感じたのだった。