サンチョパンサの憂鬱

恣意的な、作為的な行為の無力

恣意的に人を変えようとしても、一ミリも変わる事はない。
『あなたの為に……言ってる』は嘘だからである。大抵の場合は自分の意に沿わせたいのである。

ある程度、本気で人と関わると……そんな自分が見えてくる。自分までがその人を思っての事だと信じているから『お節介は行くとこまで行く』……そして、虚しい結果を迎える。

そうやって『発見した自分の心』は妙に恥ずかしい。でもだから、身の程を知るのである。俗物だな?……と何度自分に呟いた事だろう。

物事の舞台となる様な大きい仕組みは個人の恣意的な努力ではどうにもならない。
ヒタスラ待つというスタンスを余程、自分に言い聞かせなきゃ『恩着せがましい作為』が顔を出して来る。

自分の本意と相手の本意がシンクロしてる場合は希だけどある。
何も語る必要なく、何を仕向ける必要もない。時として希にある、必然という出会いはとても楽……自分をそのまま放置しておけば良い。

結局、長く自分の側に在る状況とか人間には無理がない。必然の成せる業だからである。
在るがままに在る状態で出来てる関係は強く、優しく……理解は何時もそこに在り肩の力は抜けており心は弛緩している。
例え行き違いがあっても、作為を必要とせず復元されるのである。

しかし、自分の心の奴が悪だくみを開始してはその平穏を乱す。
事の運びが思い通りに行かぬのは他人のせいじゃなく……何時も小賢しい自分の心が悪だくみを始めるからなのである……。

何時だって……自分で変えられるのは結局自分しかない。
心の悪だくみで捏造した関係は脆く弱く儚い 。それはやがて……必ず鈍い憂鬱と疼痛を心の中に醸し出す様になる。

結局、自分が自分のアザトサにやられるんだけど、それでも費やした時間とエネルギーを惜しむ余り、中々抜け出せなくなるという運び……とても哀しいものがある……。

誰に怒り誰を責めれば良いんだろう?……結局ああ、自分なんだね!?の繰返し。
ある人は自分を学び、またある人は世を拗ねたりに持っていく。

失敗のその後は……その人が自分に望んでいる質的なレベルによって様々なルートが用意されている。

『自分次第』……ってことなんだけど、昔は誰かのせいにしたいからとても嫌いだったこの言葉……。
今聞けば……自分が邪魔さえしなければ自分が望む所に自分は行ける!ってこと?!じゃん……自分次第って中々素敵なセオリーだと僕は思う様になった。
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