もはやこれ迄か?……の正念場を通り過ぎて後、落ち着いて振り返れば……敵に囲まれたのではなく自ら敵を作りその中に自らの神経を集中し、飛び込んでしまっていた?なんて事に気付くのである。
ある種の遺恨、執着にとらわれる余りに、頭の中を憤怒の対象とした人間ばかりで埋め尽くすのだから……そう感じる場合が多いということだろう。少なくとも僕はそうだった。
如何に相手に非があろうとも、それを修復したいという相手の意思表示を一刀両断に……なんて事が何度かあったのである。
未熟な人間ゆえの自分の愚行をその時は……見たか!俺の怒りを!なんて振る舞いに及ぶ事もあったと思う。
世の中のオジイチャン、オバアチャンはエライ!短気は損気……と大太刀回りをその一言で戒めてくれている。
ま、この世に生まれ出て付きあってくれる人がいるってのは奇跡的出来事である。
マッコウ臭く言えばそれを『縁』っていう。
良くも悪くもその縁によって物語は紡がれる。
長い人生を生きた末の結果なんてのは誰もどうなるかは知らない。
余りに近視眼的な見方、感じ方をすれば、四面楚歌するを聞くなんて修羅場も出来る。
良いことも悪いことも……必ず『終わる』のである。終わったと思えばまた始まりもする。
しかし、究極的には必ず終えることになる。
人其々に与えられたその『約束の日』までユックリ、世に移り行くよしなしごとを心に書き連ねて生きて行こうと思うようになった。
人を恨み、怒り、謗るのは恐ろしくエネルギーを必要とする。
若き時代の特権なのだろう。
今、修羅場にのたうつ人が居るだろう。
しかし所詮それもやがては終わるのである。
折角のその修行味わってやる!……と生きて見て欲しいと思う……。
その修羅場に過去の自分の行いを見付けられたなら……その修行の終わりは近い。
生きて起きる出来事は、良いことも悪い事も……それもこれも自分のお陰様なんである。
何れも美味しく頂こう。
美味しいとこだけ?なんて好き嫌いは罰当たり。
酸いも甘いも、辛いも苦いも満遍なく自分の作ったご馳走を味わい頂きましょうかね?
ユックリとね?……。