状況的正義を説明するには、イジメの構造を見ると解り易い。
最初はちょっとしたイタズラ、ふふん、これなら大丈夫だな?少しエスカレート、よしよし……そうやって許される範疇を拡大していくイジメっ子。
それにつれて、傍観者達も人為的に作られた異常を『許される正義』として認識し、それに積極的、消極的に参加していく流れが出来るんだそうな。
イジメると皆が笑って賛同する(正義だ!)という認識でイジメっ子はエスカレートしていく……。
人為的に作られた異常事態が正義となっていく恐怖である。
限られた空間ではそれこそが正義となっていく。異論を挟み止める者は正義を邪魔する人となって行く。
閉鎖的な名店とされる空間にもそこだけの状況的正義が存在する。
かつての京都で名店の誉れ高いバーではピーナッツの皮は床に捨てるのがよしとされてたとか?
恐る恐る入ったその人が名店だから遠慮がちにピーナッツの皮を皿に捨てると、支配人がトンできてエライ剣幕で叱られたと体験談を書いてた。
『お客様、ピーナッツの皮は床に捨てて下さい!』……と。
これなんぞ、昔のとある紳士が、破天荒を気取って演ったのが始まりなんなだろう?古い常連故に彼の演る方法はみるみる内に、『猿の芋洗い文化』の如くその店の客達の間で『正義の作法』となったのだろう……。
なにが言いたいか?……。
自分が信じ切っている『自分の意志というものの危うさ』についてである。
知らず知らず強者にオモネタり、多数意見に追随して考えた積もりで軽々しく自分の意見として述べていないか?……。
時として、それは異常な空間での状況的正義だったりするのである。
あの人は浮いている?とかハグレ者だ?とか噂されてる人と話してみると、恐ろしく常識的で明晰な論を持ってたりする。そう噂している人達が異常を状況的正義にしてるだけ?なんて事が多々あった。
質を問わずに単なる『数的多数意見』をベースに判断する事が、当たり前として行われる様になって久しい……。
くそ不味い料理を旨い旨いと食ってる人に後から……くそ不味いなぁと言ったらホッとした様に……実は塩もダシも何の味もしなかったとその人は打ち明けてきた……。
薄味を勘違いした店主の正義の食い物は状況的正義によって支持を集め結構評判を稼いでるのである。その様はむしろ笑うより哀しくなってくるのである。