そこで基礎的な事に『共通の当たり前』を設定して社会は運営される。
それはあくまでも表向き、体裁を整えておけば問題は起きない。
ま、そういう当たり前の中で、解釈の違いって奴で恣意的に歪めて運営することも可能となる。
常識と法律の間にはかなりの幅がある。その間のグレーゾーンには相当な悪意が活躍出来る余地がある。
以前、書いた嘘なんてのは下手な名誉毀損を越えてしまうものも多々ある。
幾ら、常識人を気取りそんな世の中を嘆いて見せても、『常識の解釈次第』で行われる確信犯的常識破りは如何ともし難い。
モンスターピアレントと学校が裁判で争えばほぼ100%モンスターが勝利する現実……。
んで……行き着いたのは人と深く関わりながら暮らさねばならなかった貧しい時代は、個、個人それぞれに、プライドと尊厳を有していたんじゃないか?って事だ……。
先日書いたテレビ番組での世界の食事でも貧しい売春婦が身体を売ったお金で買った食事をあなたもと取材者に分け与えたシーン。
毎日は食べれないエボラ熱を患った女も同様に分け与えた。
自由に自分で富を追及出来る様になった我々がかつて人の基本として持っていた自分のプライドを安く扱う様になっている?……。
どんな常識も法律もそれを使う人間の自分に対するプライド次第なのである。
モノ貧しく人と連帯しなければ暮らせない時代なら守れた常識も……経済活動にそこまで濃密な人間関係が必要なくなれば薄まる?……哀しいけれど。
経済事情で変化する『人間の品質』というのは如何なものか?等と虚しい正義をかざしても……『人間とはそういうモン』と受け入れるしかない。
その上で……何が出来るのか?そこからが本物の大人の人間力が問われるんだと思う……。
現実から『綺麗なだけの正論を以て逃避する』そんな情けない人間に落ちぶれる事は何があっても避けたい。
それこそが最悪の悪徳なんじゃないか?……と僕は思うのである。