ても反駁しなくなった。
関わりを絶つ事がそれ以上の被害を避ける唯一の手立てと学んだからだった。
共有も共感も出来る余地がない、『それ演っちゃダメっしょ?』の連発だからせめてワンツーパンチを食らった時点が潮時なんである。
それ以上下手な意地を張ればプライドが持たなくなる。何で?こんなん相手にしてるの?と分からなくなる。
それ演っちゃダメっしょ?……は無関係となれば『演った事』は相手の人生にのみ残り続ける。
此方は単発の被害だけでピリオドが打てるという訳である。
異邦人……まさに凶悪な異邦人との束の間の邂逅だったと諦める事で心の遭難からプライドが復帰するのである。
何時か書いたけど……話せば分かって貰えるの嘘である。
信頼に関わる事を『話さなきゃならない事』にした時点でお互いの信義は砕ける。まして相手は信義などという発想はないとくれば見知らぬ外国でかっぱらいに合った様なものである。
約束事とは話すまでもなく、お互いに淡々と履行されるべきものである。
新手の異邦人達の特徴は不誠実をイケシャアと演っといて、必ず相手から指摘させる。僕はこれを二度目の無礼と名付けている。
ま、謝る気なんてないのだから当然だけど……。
このワンツーパンチで見切りをつけることが肝要である。
静かにスタコラサッサしなければ深手の傷を負うことになる。
この国は単一民族だけど……常識や節度は単一ではなくなっている。
演って良いことと悪い事がある!と主張する旧来の日本人。
『演りたい様に演る』のが当たり前の新手の異邦人が日本人の中から誕生しているのである。
一言で『傷付ける』とか言うけれど……限度、節度って奴がいつの間にか無くなってしまってる。少しずつ少しずつ……その境界線が引き下げられ……何時しか今の『演りたい放題』まで来てしまった?……そんな風情である。
若い時は自分の被害にばかり目がいったけれど……今はその加害実行者 達の荒んだ心の……際限なく人の不幸を求めて止まない冷酷、狂暴な様に痛々しい地獄が見える様になった。
救われるべきは彼等の方なのだと感じる様になると……未来に対して目指すべき共感、共有、共生する社会を実現するしかないんだと感じる様になった。
過酷な市場原理に余裕を奪われ正常な我が心を失ってパニックを起こしている彼等もまた傷付いているのである……と。
この分断されつつある社会が再び一つに糾合出来るキーワードが現実になるには今暫くの時間を必要とするだろう。
傷付けてる人も傷付いてる人も、それまで何とかサバイバルして欲しい。
『気付いた者に行う責任がある』……この言葉は疲弊する人々に勇気を思い出させる。
先ず過酷な悪意からエスケープし、自分をサバイバルさせて欲しい。
心落ち着いたら……加害者側の『心持ちの何故?』を考えてみる事だ……。
ソコんとこに辿り着けば……一歩前進した『気付き』を得られるんじゃね?……と僕は思うのです。