サンチョパンサの憂鬱

遠くでコロナ・ラプソデイーが聞こえる

自己正当化という限りは……正当化しなければならぬ『後ろめたさ』って奴を心に仕込んでしまっている……。

その後ろめたさは自分を正当化するだけでは癒せない。
いや、むしろ正当化した事によってまた新たな後ろめたさを仕込むのである。

正当化と言えば聞こえも良いが……大抵の場合『居直り』と言っていいメンタルの組み換えは、その人間を支えていたプライドという大黒柱を失うのである。

徐々にその人は加害者から被害者に転じていくのだが、その仕込み話一つ吹聴する度に、その表面の威勢の良さと反比例する様にその人の心は卑屈になっていく……。

何時か書いたけど……人が良くなっていくスタイルは人それぞれ個性があるものだが……人が駄目になっていく時には落ち方に個性がなく、性別、年齢関係なく全く同じ道筋を辿って落ちていく。

誰が生きるにも同じに必要とする『真っ当さ』を失うから、そこを犯す者は全く同じ駄目になり方になるのだろうと思う。

そうなると、足を止めて自分の事を考えなくなる。考えると呵責で苦しくなるからだ。そして余計に刹那的になるという運びになる。

そういう状態の人達に共通するのは、自分が煮え湯を飲ませた相手が、折れてくるなら許してやっても良い等と考えている事である。
そうやって自分演出の『仮想被害者』から抜けられなくなるのである。

そういう運びの連続は、そんな人達ちに凄く孤立感を持たせるのである。
不安と寂しさから、そんな人達は同じ間違いを繰り返し犯す。

皆一様に、『人様仕様のイイ人』を演り始めるのである。そうやって間断なく誰かとつるんでいないと不安に押し潰されそうなメンタルが日常になっていく。

そして益々、人間関係における整合性を失っていく……。結果、少しでも齟齬が生じれば不安からつるむ相手を換えていく。その都度メンタルの根底に後ろめたさが堆積していくという悪循環が完成するのである……。

僕は幸運にもかなりの修羅場を見る機会に恵まれた。
だから、自然と人の顔に浮かぶ笑顔よりその下にある人の『心具合』が見える様になった。

すると……『生きた心地』って奴を失っている人達が思いの外、多い事に気付かされた。
そんな人達は勘違いをしている。

自分に神や仏を要求し完璧であるべきという妄想で自分をがんじからめにしてしまっている様に見えるのである。

そんなに立派でなくても良いのに……そんなに綺麗では居られないのに……孤独感が張り付いた作為的笑顔に出会うたびに僕はそんな事を思う……。

人間には『間違いが付き物』なのだから……自分の間違いを修正していく悦びこそが醍醐味なのですよ?
自分の間違いを確めもせず、味わいもせず……捨て去っていく生き方は勿体ない……そう言いって上げたくなるけれど……。

そんな人達は自分のご立派演技が完璧だと信じたいから……そんな事を言えばパニックになるか?怒り出すに違いない……。

多数決って奴の曖昧さ、世の中を弛く支配するいい加減さはそんなメカニズムで生産され続ける……。


哀しいのは、必死のそんな自己正当化を実のところまともに聞く人は誰もいないという事である。
『他者の事なんてどうでも良い!』というスタンスであなたが付く嘘を……『あなたの事なんてどうでも良い!』としている相手に聞かせようとしているのだから……。

聞く人から話す人となり、話す人から聞く人となり……『正当化という嘘』が織り成す『多数派のロンド』は延々と回り続ける……。

醜いアヒルの子として生きる決意をした者はアヒル達を借景とする群れを抜け……湖面に映る自らの姿を初めて確認するのである……。

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