サンチョパンサの憂鬱

立ちはだかる苦しみは……権利か?義務か?

何も踏み込んだ事は……しない。
当然、そんな人間はコレといった成果を上げられない。
しかしそんな奴は上手く行かなかった全ての事について、聞きもしないのにそれで何故仕方無かったか?について自分の正義を滔々と喋ってくれるのである。

失敗したくないから、正面から取り組まない。自分の詰まらなさがハッキリするからである。
しかし、その事がモノにならなかった事自体が大失敗だという認識はない。

認識しなければ、その大失敗は無かった事に出来ると言わんばかりの愚かさである……。
そんな、自分の事なのに当事者にならない、なれない人って増えている。

傷付く事、失敗する事……はとても耐えられない一番忌み嫌う避けるべき事態らしいのである?……。

イソップのキツネについて何時か書いたけど……駄目でも良いんだ!という『合理化』する心理で窮々となり、ソコが思考の最終段階となっている?のである。

自己防衛の心理が神経過敏にまで研ぎ澄まされてしまっていてその痛みを越える気持ちはとっくに失せてしまっているといった状態なのである。

難題を越える意義より、その事によって傷付かない事が何より優先する心理
は一体何時、何処で芽生えるのだろう?……。

それは恐らく……教育界で日々大人の側から少年少女達に出されるオーダーに起因している。
人から外れるな!変わった事をするな!その高校はレベルが高いから受けるな!失敗するぞ!……などなどと。

冷徹に見れば……そんな圧力、プレッシャーに押さえ込まれる様な奴はソコまでなのかも知れない。
長らくこの国は『出来ない人の気持ち』を考え過ぎたのだと思う……。

如何に出来ない人の気持ちを解って上げようとも……出来ない人は出来ないという事実に見合う条件を生きなければ仕方がないのだから……。
それは、出来ない人に対する偽善だったのだ!という認識からスタートするしかないのだと思う……。

出来ない者の僻み根性に逃げ込んで世の中に出れば食い物にされるだけなのである……。
『出来ないは始まりなのである』……だから『出来る事を探しなさい!』というその空気を前提に教育を始めるしか手はないのである……。

『何か自分に出来る事を探す事』……その意識無くして自分革命の成就はあり得ないのである……。

誰もが何事も出来ない状態からスタートする。
目一杯の取り組みの上で……可能性が判明する。イエスなら継続、NOなら他を当たる。
どっちにしても『今の自分を変化させる意志』無くして取り組む意味を得られない。

『出来ない自分を許容する事』は自分の未来と可能性を失う事とイコールなのである。

結局……『働かざる者、食うベカラズ』の掟を……同じ一人の人間でも『権利ととるか?義務とするか?』でその未来は大きく変わるのである。

未来のために苦しむ権利を主張する人であって欲しいと僕は若者達に対して切に願うのである。

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