生身の人間だから100%、計算で動く事もなく100%哲学的な形而上の問題のみで動く事もない。
形而下と形而上の比率こそ違え……それらは渾然一体となってお付き合いを形成している。
それに混乱や軋轢を生む原因になるのが、お互いの行動原理の計算と哲学の比率が大きくかけ離れている場合である。
計算高い人同士だと問題は起きない。お互いの計算が重なり会う部分に於いてお互いの目論見はスムーズに実行される。後に何の問題も残さない。
また、物事に深く意味を求め、形而上の価値を求める人同士でも問題は何も起こらない。お互いの心情とか美学とかに触れそこでスムーズにその交渉は成立する……。
必ず……人の問題は、お互いのその形而下『数量、規模』の計算と形而上『質、哲学』の行き違いによって起きる。それはどちらが悪いというより、お互いが相手を間違えたという失敗なんだと思う。
一方は一つのある部分を計算で捉えNOを言い、他方は同じその部分を哲学、美学的に意味を求めている。当然噛み合わない。
お互いがお互いの抵抗勢力となるから質(たち) が悪くなる。
日頃の行動原理をどちらもお互いによって邪魔される立場となる。
数と質はどこまで行っても噛み合う筈もなく。
それでも納得行かずやり合えば親の敵か?位のモメ方に発展する。
心情に良し悪しなく、あ!そういう方なんですね?……と受け入れ立ち去るのが一番賢明なのだが……往々にして意地となり我が正義を通そうとするものだ。
その心情こそがお互いの行動原理であり正義なのだからそこを責めても永遠に噛み合う事は……ない。
計算高い人も、哲学的な意味を考える人もその性向は『然り気無い仕草・言葉』に瞬間的に体現されるものである。そこで感じたニュアンスはその人の人格全部と言って良い。凄く正確に感じている『然り気無い瞬間』なのである。
自分の正義に拘ると意固地になる。
それはお互い様、一人に一つずつ正義はあるよね?……のスタンスを心掛けるしかないのである。
カネだけの問題は比率が高い。そこには余り哲学だの美学を持ち出さずサラリとやり過ごしてしまうのが良い。
然り気無い瞬間にその人の哲学や美学が言葉や動作に垣間見えたら自分の美学を持ち出してみる。
そんな場合は初対面なのに、親兄弟より腹を割って話せる相手になるでしょう……。
心情、美学を高らかに謳い、誰彼構わず広げた若き日々……自分の舞い上がりを他所に……大抵の人達は僕をドン・キホーテの再来だと思っただろう……。
そんな面倒くさい自分の美学や哲学を誰彼なく分かって貰える?なんてのは
思いっきしガキのアマちゃんだったのである……。
哲学だの美学なんてのを過大評価してはならない。
目に見えるモノ、カネの威力は凄まじいのである。
美学だの哲学だのではご飯一杯食べられないのだから……。
止せば良いのに、我こそ正義とばかり挑んでは……コテンパンに……僕はそれを身を以て体験したから間違いない……。
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