延岡の西南戦争
ようやく耳川を渡河した官軍は富高新町に第三旅団・新撰旅団、細島に第四旅団、塩見に第ニ旅団、山陰に別働第ニ旅団の本営を置き駐屯、細島港を通じて武器・弾薬・食料を補給しました。
延岡攻略には別働第ニ旅団主力部隊は第ニ旅団と連携して黒木、曽木を攻略したのち延岡へ突入、一隊は第一旅団と連携します。
第三旅団・第四旅団・新撰旅団は門川に進撃、その後延岡に突入します。
海上には軍艦日進・孟春・丁卯・清輝を配置して艦砲射撃で援護しました。
明治10年8月14日未明、別働第ニ旅団が延岡市街地へ突入します。
薩軍は抵抗しますがこれを退け午前5時には制圧しました。
この時薩軍は市街地での大規模な戦闘を避け和田越方面へ撤退します。
この撤退は野村忍介の指示で、延岡には薩軍の野戦病院や弾薬製造所などが置かれ、延岡市民は薩軍に好意的だったのでそれに感謝の意を表したようです。
8月14日地元延岡隊はここ野田で政府軍と戦闘をしています。
薩軍が和田越方面へ走った事を知ると延岡隊は政府軍に投降しました。
これにより延岡隊は戦場から消えてしまいます。
しかし、翌日の和田越決戦に延岡隊士4人が参戦し鹿児島まで西郷さんと共にしています。
西郷隆盛宿陣跡 山内善吉宅
西郷隆盛が延岡に初めて入った時の宿泊地です。
8月2日から10日にかけてここにいました。
その間で薩軍司令部は延岡市街地での戦闘は避ける事を決めているようです。
8月13日に延岡の行政責任者である塚本長民区長は延岡を戦禍から救うために管轄していた薩軍奇兵隊長野村忍介に対し薩軍の延岡からの撤収を要請してます。
その要請を延岡地区の担当責任者であった池上四郎と協議されたとあります。
山内宅での軍議で決まったのか塚本区長の要請で決まったのかはっきりしませんが薩軍全兵は延岡より撤収し、和田越方面へ向かいます。
3500人ほどの薩軍全兵が延岡から和田越まで撤収、退却、転進したのですが土地感もないのに速やかで混乱もなかったそうです。
これほどの兵士が混乱なく撤収してるという事は塚本区長の要請よりも前に山内宅で延岡市街地から和田越へ転進する事が決まっていて薩軍全兵士に通達していたのではないでしょうか?