西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊷ 玉東町吉次峠②

2023-05-02 14:07:00 | 熊本県西南戦争史跡
明治10年3月4日熊本隊本隊が木留に到着すると薩軍本営から田原坂へ応援の要請を受けます。

北の田原坂と南の吉次峠は戦線が繋がっていて、その間の谷や高地のほとんどが陣地化となっていました。

熊本隊の3個小隊を田原坂に派遣し、参謀・山崎定平が指揮をします。

佐々友房の一番小隊と岩間小十郎の十五番小隊は吉次峠の東側にある那智口に進撃、城市郎の三番小隊と北村盛純の七番小隊は大多尾の守備を薩軍に譲って田原坂背後の七本に向いました。

耳取峠では戦闘があり、熊本隊兵士の死傷者が出ています。

薩軍の篠原国幹、村田新八は半高山の山頂から三ノ岳中腹まで500人が陣を張って官軍を挟み撃ちにして破り、官軍は数百人の死傷者を出して退却しました。

しかし、篠原国幹が吉次越の六本楠で挺身して指揮していたところを顔見知りだった江田国通少佐が部下に篠原の狙撃を命じます。

篠原は狙撃されて戦死し、夜半に遺体は薩軍本営へ戻されました。



3月5日佐々友房の一番小隊は吉次峠の守線に戻り塁壁を増強します。

そして以前のように1日おきに左右の半隊が交代して守備に当たりました。

その後官軍は吉次峠を攻撃目標からはずし、田原坂へ集中攻撃をかける事になり、しばらく吉次峠での戦闘はありません。

3月20日に田原坂が陥落すると官軍は植木、木留に兵を進めます。

3月28日吉次峠に再度官軍が攻撃をしてきました。

しかし、要塞化した吉次峠では佐々隊、薩軍、新たに加わった人吉隊の防戦が有利で官軍は敗走しています。

しばらく小競り合いが続きましたが、4月1日官軍は近衛兵を中央に、第二旅団の鎮台兵を左右に配置して数百人が号砲3発を合図に三方面から吉次峠と半高山に突撃しました。



これを迎え撃つ佐々隊、薩軍、人吉隊でしたが戦闘数時間して半高山の人吉隊が撤退します。

半高山を奪った官軍は集結し佐々隊と薩軍に向けて一斉に弾丸を発射しました。

背後から敵弾が雨のように降ってきて挟み撃ちになった佐々隊と薩軍は身動きがとれず、山側の松林を潜行して三ノ岳へと後退してしまいます。

これにより地獄峠と恐れられていた吉次峠は陥落してしまいました。

吉次峠廠舎の古写真


上の古写真をカラー化





【西南戦争史跡】

吉次峠激戦地跡













吉次峠から木葉、高瀬方面を望む



この碑は佐々隊が死守したことを称えて建立されました。


佐々友房の漢詩




きちとうげたたか
さっ友房ともふさ
きみずやきちけんしろよりもけんなり
     突兀とっこつそらしてみち崢嶸そうこう
けむりたかへんみず
     かぜさんたけほうじょうはた
いっちょうけいつたえてわらってあいてば
     たちま千軍せんぐんばんこえ
しょうえんくもたまあめ
     そう一命いちめい鴻毛こうもうよりもかろ
吶喊とっかんこえ巨砲きょほうしてひび
     やまさけたに乾坤けんこんとどろ
砲声ほうせいゆるところしょうせいしずかなり
     一輪いちりん皎月こうげつ陣営じんえいらす

【通釈】
君は知っているだろう、吉次峠の峻険さは城壁を登るよりも困難だということを。崖は切り立ち、道は険しい。高瀬川から上る霧に視界も定かでなく、三ノ岳の峰の風が旗指物を吹き上げる。一たび敵襲が伝わり、笑って相対すれば、たちまち千軍万馬の敵が押し寄せてくる。硝煙は雲のように立ち、銃弾は雨のように降り注ぐ。勇壮な兵士の生命は、鳥の羽よりも軽い。敵陣に突入の鬨の声が砲声とともに山に叫び、谷に吼え、天地をとどろかせて響く。やがて、砲声が絶え、松の梢をわたる風声も静寂な中を、一輪の、皎皎たる月が陣営を照らし出すのである。




半高山

吉次峠本道と半高山です。




半高山から田原坂を望む




令和14年までに公園整備計画があります





篠原国幹戦没の地

初めて薩軍の大隊長が戦死しました。

篠原国幹は他の将とは違って寡黙でしたが、決めた事には義を言わず断行する人物でした。

篠原国幹が習志野の地名の由来になったと言われています。



そんな篠原国幹の戦死は薩軍にとって大きな損害だったことでしょう。




官軍がいた立岩、木葉方面を望む








立岩薩軍砲台跡

道幅は狭く、わかりにくい場所ですが案内板があります。




墓地の中に建っています。


木葉、高瀬方面を望む

【明治十年西南戦役 田原・吉次・植木戦蹟図】にある岩立砲台






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薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊶ 玉東町吉次峠①

2023-05-02 02:20:00 | 熊本県西南戦争史跡
官軍からは地獄峠と呼ばれた吉次峠とは…

吉次往還の難所だったのは吉次峠でした。

吉次峠は三ノ岳の裾野と半高山(高さが三ノ岳の半分なので半高山)の谷間にある峠です。

吉次峠には佐々友房率いる熊本隊一番小隊が死守した事から佐々友房戦袍日記から見た吉次峠を書きたいと思います。





熊本城を攻撃中の薩軍に官軍(第一、ニ旅団)が博多から南関に向かっているのと、先鋒隊が既に高瀬(玉名市)にいると報告が入り、熊本城攻撃と官軍の南下阻止の並行作戦をとります。

北上した薩軍は植木にての緒戦、玉東町木葉(このは)で先鋒の第十四連隊を撃退して高瀬へ向いました。

明治10年2月26日熊本隊本隊は高瀬に向かう途中、白木村にて農夫から他の熊本隊がこの先の寺田村で苦戦していると告げられます。

その報告を聞いた熊本隊本隊は隊を救うため農夫に案内されて進んで行きました。

しかし、待っていたのは官軍の伏兵で熊本隊は一斉射撃を受けます。

農夫は官軍の間諜(スパイ)だったのです。

この戦闘で熊本隊は多大な戦死者を出し、六番小隊は全滅しました。

熊本隊は木留に退却、同時期に薩軍は高瀬・木葉で敗れ退却してしまいます。

その時、佐々友房率いる熊本隊一番小隊は吉次峠に向かって退却しました。(高瀬会戦)

吉次峠に着いのですが、薩軍は全軍が退却して人影がありません。

佐々は『吉次は絶嶮で枢要の地だ。今この地を捨てて敵に占領されたら、たとえ百の西郷があってもどうにもならない。ここに留まって死ぬのも、ここを捨てて10日後に死ぬのも、死は1つだ。私はこの地を死に場所と決めた。』と言うと隊全員が賛成、承知しました。

佐々は大いに喜び刀を抜いて傍らの大楠の幹を削り、墨も黒々と【敵愾隊悉死此樹下】と大書し、枯木を集めて篝火をたき、塁壁を設けて決死の覚悟で官軍の襲来を待ちます。

吉次峠の古写真




上の古写真をカラー化




3月3日官軍の第一、ニ旅団は一部の兵を高瀬に留め、安楽寺(現在の玉名市と玉東町の境にある地)へ三池往還を進みます。

官軍の支隊(歩兵2個中隊を前衛、歩兵3個中隊を後衛)を率いる野津道貫大佐は吉次往還を進みます。

薩軍の守備は以下の通りです。

吉次峠 佐々友房 (熊本隊一番小隊)
    相良長良 (一番大隊五番小隊)

耳取峠 三宅新十郎(熊本隊五番小隊)

三ノ岳 岩間小十郎(熊本隊十五番小隊)

大多尾 林七郎次 (一番大隊一番小隊)
           城市郎  (熊本隊三番小隊)
    北村盛純 (熊本隊七番小隊)
    遠坂関内 (熊本隊十番小隊)

野出  永山休二 (四番大隊五番小隊)


耳取峠は吉次峠の北隣りにあります。



これらの隊がお互いに連絡し合って防備を固めていました。

吉次峠では熊本隊の一番小隊長・佐々友房、軍監・高島義恭が右半隊を指揮して吉次越本道を守り、軍監・古閑俊雄、半隊長・真鍋慎十郎が左半隊を指揮して半高山の中腹を守りました。

官軍は砲撃を援護に本道を勢いよく射撃を行いながら進んできます。

しかし、薩軍や佐々隊が必死に防戦して官軍は吉次峠を抜く事ができません。

今度は半高山麓を廻って隣りの耳取峠を攻撃目標にします。

しかし、そこには古閑の隊が伏兵していました。

官軍がわずか数間に近づいて通り過ぎようとした時、伏兵が一斉射撃。

慌てた官軍は逃げる者、撃たれる者その数を知れず、さらに伏兵は激発してその横を撃たせたので多大な犠牲者を出しました。

やがて官軍は方向を変え、半高山に向かって一斉射撃を行います。

その状況はまるで大雨が降るようで、古閑が楯にしていた松の木は弾丸で皮がはじけ、幹は砕けて目を開くこともできない激しさでした。

戦闘は正午から夕方まで続き古閑隊は夜になると半高山に登って夜を徹して間道を固く守りました。

本道は佐々、高島等が奮闘して官軍を撃退しています。

この日の戦いで十数万発の弾丸が飛び交い、官軍の長さ数百mの堡塁の間は空になった薬莢で埋まり、官軍兵士の死屍が累々とした悲惨な情景だったようです。

官軍はこの日と翌4日の戦いに敗れて以来、吉次峠のことを地獄峠と呼んで近づくことを恐れました。

次項につづく