西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 番外編②

2023-05-06 22:39:00 | 宮崎県西南戦争史跡
西南戦争で西郷隆盛の側付だった深江権太郎

深江権太郎?

この名前を聞いたことがある方は少ないと思います。
深江権太郎は薩摩國の川辺村古殿(かわなべむらこうどん)出身で狩りに訪れた西郷隆盛の道案内や身の回りの世話をしました。
権太郎を気に入った西郷さんは宮崎のえびの市にある白鳥温泉などにも付き添わせています。
旧下級士族しか入ることができなかった私学校にも西郷さんの口添えで入校できました。

西南戦争に従軍した権太郎

私学校に薩軍本営の看板が掲げられて薩軍が上京する時、権太郎は桐野利秋に西郷さんの側付としてどんな時も離れるなと言われます。
権太郎は桐野の命令を自分の任務として8ヶ月の間西郷さんの側にいて、飯炊きや輿を担ぎ、身の回りの世話を行いました。

城山での権太郎

西郷さんが城山に入る少し前、桐野利秋に『利秋どん、権太郎に何か土産をつかわしてくいやんせ』と言います。
桐野は出発時から持っていた島津77万石丸に十字の旗標と田原坂の戦いが終わってから畳んで身に付けていた本3冊と大小を記念につかわしてました。
そして8ヶ月間西郷さんの側付を努めたことにより命を助けるから今後の日本発展に尽くしてくれと言われています。
薩軍が鹿児島の城山に立て籠ると権太郎は生き残りの軍夫と最後の奉公として砂取穴を掘りました。
現在の西郷洞窟です。
ここを掘ったのが深江権太郎だとは知らなかったです。

戦後の権太郎

城山岩崎谷を東側に出て、吉野村実方(桐野利秋誕生地)で隠してあった桐野からの記念品を取り、伊敷村を迂回して川辺に帰ることができました。
西南戦争が終結して権太郎に追っ手が来ることを恐れた親類縁者は権太郎は何処かで戦死したことにして古殿よりも山深い瀬戸山に身を隠します。
しかし、官軍の使いも来なかったので名前を熊助と改名して国民の義務だった徴兵検査を受けて軍役に努めました。
軍の訓練ではきびきびと動き成績抜群で中隊長に『私は西南ノ役や私学校で実習を受けたので、これ以上練習せんでも覚えております』と言います。
それに対し中隊長は『深江、それならお前がやれ』と言われました。
権太郎の号令や右、左の歩調が良くとれていたので中隊長の助手として教鞭をとることになります。
その話を聞いた十三連隊長・川上操六(西南戦争時は熊本城で籠城していた)が権太郎を呼び出し、『貴殿は西南ノ役に西郷閣下について行かれたそうだがご苦労であった。本日は、当時の実情を田原坂戦以後、宮崎県下に長くいて鹿児島に帰られて、城山で御戦死までの行軍を詳しく話してくれ』と言われ状況を話たようです。

退役後の権太郎

軍役が終了すると権太郎は地元に戻ります。
木挽きの千頭(木挽きの頭役)となり地元の青年20名ほど連れて白鳥温泉の白鳥山に出稼ぎへ向いました。
20年ほど出稼ぎに出てましたが大正になって電動ノコが主流になると地元に帰ります。
しばらくして宮崎の加久藤村で自業を営む次男の所に移り住み余生を送りました。
権太郎の永眠日は昭和10年9月24日で西郷隆盛と同じ日という実に不可思議な因縁で有り難いとあります。

この『南洲翁の足軽籠かき飯炊き 西南役従軍深江権太郎記』は権太郎の4男・深江武夫氏が権太郎から聞いた話を後年書いたものです。

権太郎の玄孫の方が現在小林市でうどん屋を経営されています。





美味しかったです♪





薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㊸ 玉東町二俣台・横平山

2023-05-06 15:15:00 | 熊本県西南戦争史跡
官軍は薩軍が守備する田原坂攻略で田原坂と谷を隔てた二俣台に進発します。

田原坂の東側・二俣台



明治10年3月4日~8日に二俣で薩軍と戦闘がありました。
(二俣口の戦い)

二俣を攻略した官軍はこの台地に砲台を構築して、官軍本隊が攻撃している田原坂に向け援護の砲撃を行いました。

二俣台地から田原坂にかけては遮る物はなく、見通しがいいため砲台を築くには絶好の場所でした。

田原坂から二俣台地を望む





二俣台地の砲台は瓜生田と古閑、その間に官軍出張本営が置かれ出張本営にも砲台を築いています。

大砲は四斤山砲で8門が田原坂、七本方面に向けて砲撃されました。

四斤山砲(官軍主砲)
西南戦争で官軍の四斤山砲弾薬消費量は57087です。



瓜生田官軍砲台跡古写真


発掘調査では四斤山砲の轍が見つかっています。



古閑官軍砲台跡(下段)古写真



明治十年西南戦役 田原・吉次・植木戦蹟図にある二俣台地の砲台。



官軍の砲撃は昼間のみ行われており、夜になると解体して木葉へと移したようです。

薩軍による夜襲で大砲を奪われないようにしたと言われています。


二俣瓜生田官軍砲台跡











二俣官軍出張本営跡





二俣古閑官軍砲台跡



ここは上段と下段に分かれて砲台が築かれています。



上段の砲台跡


下段の砲台跡







令和14年までに公園整備計画があります。






横平山の激戦

二俣台地の南側に横平山があります。



横平山は田原坂から吉次峠の防衛線にあり、薩軍の重要な陣地でした。

薩軍の防衛線
(黒点が横平山、赤点が官軍砲台)



田原坂から見た横平山方面






横平山では3月9日から官軍が攻撃を開始しています。

山頂に陣地を築いている薩軍に北側麓から官軍兵士は射撃をしながら登っていきました。

薩軍も応戦して射撃、抜刀して白兵戦を行い多くの死屍が横たわる状況だったとあります。

膠着状態が続いていましたが3月14日官軍は警視抜刀隊を編成して15日に横平山へ投入します。

(警視隊と警視抜刀隊を混同している人が多いのですが別です)

士族からなる両軍は激しい白兵戦を繰り広げました。

それによる死傷者も官軍は木葉、薩軍は木留の野戦病院に多く運ばれています。

3月15日~17日による官軍の猛攻で横平山は陥落してしまい、ここから吉次峠攻略の足掛かりにしていきました。



横平山山頂にある西南役激戦跡の碑



薩軍の塹壕跡



わかりにくいですがわずかに盛土があります。



慰霊碑



横平山から田原坂を望む





横平山へ行くにはいくつかの道がありますが下地図の赤線の道が1番通り易いです。
(その他の道は道幅が狭かったり、山道だったりします)



こちらも公園整備計画があります。






横平山薩軍仮埋葬地

横平山で戦死した薩軍兵士が仮埋葬された場所で戦後に改葬されたようです。


ここには徒歩でしか行く事ができません。



写真ではわかりにくいですが、かなりの急坂ですので訪れる際は気をつけて下さい。







薩軍兵站の地

ここには唯一湧き水があり、両軍が使用しています。



湧き水が赤く染まるほど多くの死屍が横たわっていたようですね。