西南戦争で西郷隆盛の側付だった深江権太郎
美味しかったです♪
深江権太郎?
この名前を聞いたことがある方は少ないと思います。
深江権太郎は薩摩國の川辺村古殿(かわなべむらこうどん)出身で狩りに訪れた西郷隆盛の道案内や身の回りの世話をしました。
権太郎を気に入った西郷さんは宮崎のえびの市にある白鳥温泉などにも付き添わせています。
旧下級士族しか入ることができなかった私学校にも西郷さんの口添えで入校できました。
西南戦争に従軍した権太郎
私学校に薩軍本営の看板が掲げられて薩軍が上京する時、権太郎は桐野利秋に西郷さんの側付としてどんな時も離れるなと言われます。
権太郎は桐野の命令を自分の任務として8ヶ月の間西郷さんの側にいて、飯炊きや輿を担ぎ、身の回りの世話を行いました。
城山での権太郎
西郷さんが城山に入る少し前、桐野利秋に『利秋どん、権太郎に何か土産をつかわしてくいやんせ』と言います。
桐野は出発時から持っていた島津77万石丸に十字の旗標と田原坂の戦いが終わってから畳んで身に付けていた本3冊と大小を記念につかわしてました。
そして8ヶ月間西郷さんの側付を努めたことにより命を助けるから今後の日本発展に尽くしてくれと言われています。
薩軍が鹿児島の城山に立て籠ると権太郎は生き残りの軍夫と最後の奉公として砂取穴を掘りました。
現在の西郷洞窟です。
ここを掘ったのが深江権太郎だとは知らなかったです。
戦後の権太郎
城山岩崎谷を東側に出て、吉野村実方(桐野利秋誕生地)で隠してあった桐野からの記念品を取り、伊敷村を迂回して川辺に帰ることができました。
西南戦争が終結して権太郎に追っ手が来ることを恐れた親類縁者は権太郎は何処かで戦死したことにして古殿よりも山深い瀬戸山に身を隠します。
しかし、官軍の使いも来なかったので名前を熊助と改名して国民の義務だった徴兵検査を受けて軍役に努めました。
軍の訓練ではきびきびと動き成績抜群で中隊長に『私は西南ノ役や私学校で実習を受けたので、これ以上練習せんでも覚えております』と言います。
それに対し中隊長は『深江、それならお前がやれ』と言われました。
権太郎の号令や右、左の歩調が良くとれていたので中隊長の助手として教鞭をとることになります。
その話を聞いた十三連隊長・川上操六(西南戦争時は熊本城で籠城していた)が権太郎を呼び出し、『貴殿は西南ノ役に西郷閣下について行かれたそうだがご苦労であった。本日は、当時の実情を田原坂戦以後、宮崎県下に長くいて鹿児島に帰られて、城山で御戦死までの行軍を詳しく話してくれ』と言われ状況を話たようです。
退役後の権太郎
軍役が終了すると権太郎は地元に戻ります。
木挽きの千頭(木挽きの頭役)となり地元の青年20名ほど連れて白鳥温泉の白鳥山に出稼ぎへ向いました。
20年ほど出稼ぎに出てましたが大正になって電動ノコが主流になると地元に帰ります。
しばらくして宮崎の加久藤村で自業を営む次男の所に移り住み余生を送りました。
権太郎の永眠日は昭和10年9月24日で西郷隆盛と同じ日という実に不可思議な因縁で有り難いとあります。
この『南洲翁の足軽籠かき飯炊き 西南役従軍深江権太郎記』は権太郎の4男・深江武夫氏が権太郎から聞いた話を後年書いたものです。
権太郎の玄孫の方が現在小林市でうどん屋を経営されています。
美味しかったです♪