2024年2月11日
やや北寄りですが可愛岳の西側ですね。
薩軍経路が1本で前・中・後軍で分かれていませんが可愛岳突囲ルートは可愛岳の西側を通っています。
今回目指す可愛岳を眺めました。
スタート地点
朝日に輝く可愛岳
道の脇は絶壁で滑り落ちないよう注意しながら歩きます。
自分は倒木をくぐった時にスマホを落としており、しばらく進んだ所で写真を撮ろうとポケットに手を入れたらスマホが無い事に気づき、探し回る場面もありましたが無事探しだせて良かったです…
この様な状況では山路とは言えない気もしますが…
宮崎県延岡市において生涯忘れることの無い体験ができました。
始めにこの様な貴重な体験をさせていただいた【和田越決戦を語り継ぐ会】会長・牧野義英氏に厚く御礼申し上げます。
本題に入る前に!
2月10日いつものように新たな西南戦争の史跡(今回は五ヶ瀬町・高千穂町・日之影町)を巡りながら延岡へ向かい牧野会長とお会いして和田越で新たに見つかった塹壕と和田越周辺を案内してもらいました。
新たに見つかった塹壕は藪に覆われとても素人では探し出せない状況です。
なぜ探し出せるのか尋ねると『山の斜面が急に下がっている場所を気にかける』とのことでした。
藪に覆われていても角度が急に変わるのは地面の角度が変わっている証拠、そこには人工的に何か作られている可能性があるとご教授していただきました。
なるほど!と思い見返してみましたが…やはりわかりません。
まだまだ勉強と経験不足ですね。
その塹壕の写真
この藪に塹壕があるとわかる方おられますか?
(ほとんどの方がわからないと思います)
藪の中には土塁があり、内側は足を入れたら約1mほど深くなっています。
身体を立てて射撃をする立射の塹壕との事で和田越決戦遺構では珍しいのではと感じました。
この塹壕が早く陽の目に出てくることを願いこの場を後にします。
次に案内されたのは和田越決戦で桐野利秋が精鋭を率いて堂ヶ坂を駆け下り、助田(足元がぬかるんだ田んぼ)で立ち往生している別働第ニ旅団の官軍兵士に切り込んだ場所です。
堂ヶ坂は西南戦争史跡㊿ 特別編②で載せていますのでご覧になって下さい。
現地の写真
桐野利秋が下ってきた経路
【写真】
【現在の航空写真地図での経路】
【明治期の地図での経路】
昔、桐野利秋が官軍に切り込み戦闘した場所の一部で会長のお父さんが米を作っており、堂ヶ坂の名残りを目の当たりに見ていたそうです。
何か縁というものを感じます。
次に案内してもらった場所は第四旅団の牙營地跡です。
第四旅団は和田越の堂ヶ坂から無鹿方面の東側を担当地区として攻撃をしていました。
和田越決戦の前日8月14日には第四旅団は無鹿の一の山・二の山を陥落、三の山途中まで占拠して夜通し薩軍と対峙します。
(現在は宅地開発や道路により一の山・二の山・三の山の一部は削られています)
戦前地形図(陸地測量部)では一の山・二の山・三の山は削られておらず当時の状況がわかります。
昔、北川には橋が無く川舟で渡河していたと聞きました。
地図には渡場も書かれています。
せっかく案内していただいたですが話に夢中になり写真を撮る事を忘れてました…
ほがない(鹿児島弁で間が抜けている)自分を痛感しています…
この事を牧野会長に話すと写真を送ってもらい載せることができました。感謝!
無鹿山から第四旅団牙營地を望む
海軍の軍艦が延岡湾に侵入し、無鹿の友内地区に布陣していた薩軍を艦砲射撃したそうです。友内地区では8軒が焼失したそうで、旧藩主の内藤氏から見舞金が給付された文書が残っているとのことです。
延岡湾に侵入した軍艦は5隻
日進・清輝・鳳翔・孟春・第ニ丁卯
和田越決戦での軍艦の動向や詳細な事を書いてあるブログを紹介しますので見て下さい。
8月15日の第四旅団の動きです。
第四旅団は前日に占拠した三の山途中の場所からと牙營から和田越の東側を進行して薩軍を攻撃、分隊を一の山より下流約1Kmの場所で川舟により渡河させ、川島を北上し和田越から後退する薩軍を北川対岸から狙い撃ちします。
第四旅団牙營地跡から牧野会長宅に向かい翌日の調査経路の打合せを兼ねた宴に招かれました。
会長の奥様は前回と同様に笑顔で迎えていただき、沢山の料理を準備してもらい焼酎を呑みながら楽しい時間を過ごしました。
西南戦争当時も薩軍は延岡の人達に寝食を提供してもらってますので、今回の宴が147年を経て当時の薩軍と同じ心情を感じさせてもらったような気がします。
前回牧野会長から四斤山砲の破片をいただきましたが、今回はお宝である銃弾をいただきました。
西南戦争マニアの誰もが欲しいと思う物の1つですよね!
大事にしたいと思います。
【2月11日午前7時】
今日は薩軍の可愛岳突囲戦で前軍が進撃した経路を探索します。
【可愛岳突囲戦を簡単に説明】
8月15日和田越決戦で敗れた薩軍は長井村俵野に撤退します。
官軍は俵野の薩軍を包囲して薩軍を殲滅するように動きました。
16日、17日と俵野の周りを守備する薩軍と包囲している官軍とで戦闘が繰り広げられています。
薩軍首脳陣はここで玉砕覚悟で決戦するか豊後へ進出するかなど色々と話合われましたが西郷隆盛は食料・弾薬が乏しいく戦っても無理と判断し、軍の解散を宣言、陸軍大将の軍服や重要書類など全て燃やして官軍の包囲を突破して三田井(高千穂町)に向かうことを決めます。
俵野ではほとんどの党薩諸隊が降伏、病院には国際法に基づき白旗を掲げ官軍に身を委ねました。
官軍の包囲を突破する薩軍兵は軍夫も入れ約1000名。
奇兵隊が延岡で本営を構えた頃からの古い案内人の黒田万吉・猟師の立山八五郎・農夫の児玉(岡田)初治を案内人として薩軍は隊を前・中・後軍に分け8月17日午後10時可愛岳に向かって脱出します。
可愛岳付近で前・中・後軍とも官軍と戦闘し、奇跡的にも包囲を脱して三田井の方に進むことができました。
牧野会長宅に今回の調査メンバーが揃います。
メンバーの紹介をさせていただきます。
調査代表の牧野義英氏
去年薩軍本隊可愛岳突囲ルート・官軍第ニ旅団の薩軍本営殲滅攻撃に六首山から俵野へ進む予定であったルートを踏破成功しております。
薩軍前軍ルートは山路の無い山岳地帯を東から西に進むのに4~5時間かけても可愛岳脊梁を越えられず半分の位置で中断、今回は前回中断した地点からの調査になります。
メンバーの皆が頼りにしている方です。
鹿児島より南晃氏
1月21日の和田越決戦遺構巡りを一緒に参加して、今回の調査にも進んで挙手しました。
生粋の薩摩人で広範囲の西南戦争史跡を巡っており、自分は参考にさせてもらっています。
自転車で史跡巡りもされている力強い方です。
小田原聡氏
自分の職場の同僚でこの方も生粋の薩摩人。
西南戦争に関する知識は初心者ですが先人達が歩んだ道を体験したいと参加。
上記の3人に自分を合わせた4人が今回の薩軍前軍ルート調査のメンバーです。
【今回のルート】
上記にある可愛岳中ノ越と俵野の西郷隆盛宿陣跡にある案内板では中ノ越の場所が違うのでは?と思われる方がおられるかもしれません。
後日、牧野会長にお聞きしたところ会長も把握しておられ、北川町からの図、自衛隊編集・新編西南戦史の中ノ越の場所を記した文面、新編西南戦史付図集の図をいただきました。
北川町の図
やや北寄りですが可愛岳の西側ですね。
自衛隊編集
新編西南戦史
西南戦史付図集
上記の文面を読むと下の図で位置確認ができますね。
薩軍経路が1本で前・中・後軍で分かれていませんが可愛岳突囲ルートは可愛岳の西側を通っています。
自分の推測ですが地名とは違い場所を指定せず可愛岳を越える場所の全てを地元住民が中ノ越と言っていたのではないでしょうか。
もちろん場所を伝えるのは口答ですから可愛岳西側を言っている人もいれば東側を言っている人もいたのかもしれません。
自分の勝手な推測ですからサラッと読み流して下さい…
会長からの資料と説明で中ノ越は可愛岳西側にあると確信しました。
では荷物を積み出発地点の大峡町竹谷神社へ向かうことにします。
和田越を通り抜け、延岡学園を横目に大峡谷川沿いを進み、その突き当りに竹谷神社があります。
先ず、竹谷神社で今回の調査が無事成功できるように祈願して記念撮影。
8月15日の和田越決戦に敗れた薩軍は和田越から俵野に撤退しますが最短距離の日豊街道では北川対岸に第四旅団兵士の姿が見えたようです。
そのため日豊街道を撤退する薩軍は少なく第四旅団からの狙い撃ちを避け、多くの薩軍は長尾山から尾根をつたって六首山・可愛岳に向かったり、大峡町から竹谷神社方面に向かい可愛岳を経て俵野に撤退しました。
竹谷神社で休憩していた薩軍に官軍の追撃隊が迫ると戦闘が起こり神社は焼失してしまいました。
和田越決戦に敗れた薩軍が俵野に撤退した経路
和田越から長尾山の尾根を撤退したのは辺見十郎太で六首山から南西側の尾根を進んでいると下から上ってきた第ニ旅団と遭遇し戦闘になります。
戦闘は午後2時過ぎで両軍尾根の稜線にある山を陣地にして対峙します。
しかし、夜になると薩軍は可愛岳の東側なのか大峡町の山中なのか不明ですが撤退していき自然と戦闘が終わりました。
(上記の説明ですがこのブログ内では出ていない地名や山の名前があり、地理的にわからない方もいるのではと思い簡単にまとめました。
前軍経路検索編②で地名など出てきますのでその時に再度詳しい状況を伝えたいと思います。)
AM7:30会長から現地の説明をしてもらい荷物を取ってから出発します。
今回目指す可愛岳を眺めました。
可愛岳は饅頭を半分に割ったような山で北側は比較的緩やかな斜面、南側は断崖絶壁になっています。
写真は南側から撮影したもので左から右にかけて百間ダキと呼ばれる長い絶壁の崖が見えます。
スタート地点
広がる平地を進むといきなりの岩場が現れます。
最初から不安になりながらも岩場を抜けると林道があり、その林道を登って行きます。
AM8:21林道の中腹辺りで清々しい光景を目にしました。
朝日に浮かぶ山の稜線が美しい!
朝日に輝く可愛岳
今回は正面左側に見える百間ダキの真下を左に進み可愛岳の崖が終わった稜線へ上がるとのことでした。
朝日を背に受けまだまだ林道を歩きます。
すると歩き易かった林道は徐々に崩落や倒木などで歩き辛くなっていきました。
道の脇は絶壁で滑り落ちないよう注意しながら歩きます。
自分は倒木をくぐった時にスマホを落としており、しばらく進んだ所で写真を撮ろうとポケットに手を入れたらスマホが無い事に気づき、探し回る場面もありましたが無事探しだせて良かったです…
しばらく進むと林道も終わり本格的な山路になります。
AM8:49林道の終了地点(竹谷神社より3.1km)
ここからは本格的な山路
この様な状況では山路とは言えない気もしますが…
AM9:15道無き山路を登って行くと昔使われていた炭窯跡が目の前に現れました。
スタートして3.7km・1時間45分、これまでの道は準備運動でここからが調査本番です!
調査に向けての記念撮影。
ここからこれまでの人生で最も過酷でしたがとても貴重で有意義な山登りがスタートします。
前軍経路探索編②へ続く