西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡53 薩軍可愛岳突囲戦 前軍経路探索編②

2024-02-24 11:04:00 | 宮崎県西南戦争史跡
前回の続きになります。

探索メンバーは牧野義英会長・南晃さん・小田原聡さんで炭窯跡から最終地点の浜砂(はまご)集落まで目指します。

今回の経路




前回見つけた標高406m地点の炭窯跡からスタートです。



牧野会長の説明では可愛岳南ダキ下の標高500m辺りまでには多くの炭窯跡があるそうで、これまでに10ヶ所程確認しているとの事でした。

古来より主として使われた燃料は炭や薪であり、炭窯があった周辺では広範囲で樹木を定期的に伐採していたため、戦記本では深山幽谷の森であったと記されてますが現実には低木の雑木林だったと話されていました。

炭や薪は木馬路(きんまみち)で里まで下ろしていたそうです。

(木馬路とは炭や薪をソリに乗せ里を行き来していた路です。昭和30年ぐらいまで使われていましたが燃料が石炭・石油に変化していき徐々に使われなくなりました。そのため今では崩壊や消えてわからなくなっています)

その事から西南戦争当時は多くの木馬路が存在しており、薩軍が暗闇の中でも進出できたのは地元案内人が木馬路を案内して通ったと考えられます。

この炭窯跡にも木馬路らしき路が可愛岳山頂側の東に伸びていました。



その木馬路を進みます。



木馬路も280m程で辺り一面岩ばかりになり、木馬路も消えてしまいました。



メンバー全員で路の痕跡を探しましたが何も見つかりません。

牧野会長が上の写真奥に写る尾根に登ろうと言われ、皆登って行きました。



尾根に登ったら尾根に沿って路らしき状態になっており、ここから北側の百間ダキ下まで行き、それから百間ダキ沿いに西側へ探索することにします。



歩き易い尾根路です。



尾根を進むと百間ダキの断崖絶壁に突き当りました。

目の前には大きな岩の壁!

こんな光景は初めてです。



この絶壁の岩は白いので花崗岩か花崗斑岩だと思われますが自分にはまだ区別がつきません。

まだまだ勉強不足ですね…
地質学も学ばないと!

ここから絶壁の下に沿って西側に進みます。







なかなか険しい路です。





ここは獣道なのだろうかと思ったりもします。



絶壁下を進んでいると徐々に大きな岩が現れてきました。



この時、何故か身体は軽く、ワクワクともウキウキともいうような気分になっていました。

アドレナリンが出ていたのか何かに憑かれていたのかわかりませんが不思議な感じでした。

そんな状態で1人ではしゃいでいた事を思い出します。




巨石が立ち塞がるようになってきたので無理して絶壁沿いを進まず、会長の助言に従い植林地に沿って歩くことにしました。





すると牧野会長が『さっきの場所だね』といいましたがメンバー全員は『???』で現状を把握していません。

少し歩くと最初の炭窯跡が現れました。

牧野会長の洞察力には感服します!!

牧野会長は自分達に気遣った言葉なのか『これまでの時間を無駄にしたね』と言われましたが、自分の中では東から西に進むルートは絶壁沿いを通ってもスタートした木馬路を通ってもこの炭窯跡に着く。

という事は薩軍の前軍はこの木馬路のルートを通ってここから中ノ越へ向かったのではないのかと想像できました。

ですので自分には無駄ではなく結論が出た探索だったと思います。



戻ってきた炭窯跡から探索再開します。

これから中ノ越に向かって進むのですが路がありません。

炭窯跡裏の斜面を登って行きます。

これが中々の急斜面。

途中で休憩をしてまた登り、登りきった所に獣道が現れます。

まだ新しい鹿の足跡があり、牧野会長はさっきまでここに居たが自分達の気配を感じ逃げたのだろうと言われました。



その獣道を進むと新たな炭窯跡を見つけます。

標高442m・時刻10:38 2番目の炭窯跡です。



しかしながらこの炭窯跡の周りには木馬路が存在しません。

炭窯があれば木馬路もあるはずですが、今では落石・土砂・腐葉土などで埋没したりしています。

またシダに覆われたり、沢のような所も崩落して無くなってしまう部分もあったりと残念ながら既に消滅してしまったのでしょう。

この炭窯跡の存在で昔は木馬路があり、薩軍の前軍が通った可能性が高いと思われます。

そう考えると先人の息吹を感じるとても感慨深い探索です。

その様な事を考え炭窯跡を横目に中ノ越へ向い進みます。



ようやく可愛岳の百間ダキも終わり稜線へ登ることができました。

標高568m・時刻11:28・距離6km

ここでまた記念撮影。



そして休憩!

喫煙者の自分は休憩の度ニコチンを摂取しています。(笑)
大自然の中での一服!
(もちろん携帯灰皿は持参しています)



ここから稜線に沿って中ノ越・六首山・小畑山を目指して歩きます。

稜線の最狭部



中ノ越へ向かっていると牧野会長の足が止まりました。

塹壕を見つけたようです。

確かに土塁と窪み。

会長に言われなければ誰もが気がつかなかったでしょう。

和田越に残る数多くの塹壕を発見して整備、管理している会長の眼力には本当に感服しますし、我々にはない見識を持っているのでとても頼りになります。

この塹壕を塹壕①としておきます。

土塁が南側に構築されているのは南側の斜面を攻め込んでくる官軍に対応するためでしょうね。



この塹壕から114m先にも塹壕があります。

2つ目の塹壕を塹壕②としましょう。

こちらの土塁は北側に構築されています。



可愛岳突囲戦の姿が目の前に現れてきました。

事前に牧野会長から六首山塹壕群の資料をいただいてましたがこの2つの塹壕は中ノ越より可愛岳寄りにあります。

という事は六首山塹壕群は自分の考えていた範囲よりも更に広い範囲にあるということを認識しました。



この塹壕について調べていると1つのブログに答えがありました。

高橋信武氏のブログ【第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 8月】内にここの塹壕があり、8月15日・16日の両軍対峙にて薩軍が構築、守備していたことが書かれていました。

(第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 8月より)



西郷隆盛、薩軍の将達が俵野にいる間も両軍が対峙して戦闘があっていたのですね。

塹壕を後にして再び稜線を進みます。

11:47 標高523m中ノ越に到着。

中ノ越は可愛岳稜線の鞍部にあり、先ほど休憩した場所から中ノ越にかけて昔は猪や鹿が南側から北側へ稜線を越えていました。

猟師はこの中ノ越でも待ち伏せして可愛岳の南北を行き来する動物を獲っていたとのことです。

中ノ越辺りに長尾山からの稜線が交わります。

薩軍前軍経路探索①で書いてありますが8月15日和田越決戦で官軍に敗北して長尾山一本松から撤退した辺見十郎太隊はここに来て桑平・浜砂方面に向かっている途中、桑平から進んできた第ニ旅団と遭遇して戦闘がありました。

第ニ旅団は小畑山、辺見十郎太隊は六首山に陣を構え対峙します。

長尾山から追撃してくる別働第ニ旅団兵も六首山に陣取る辺見十郎太隊と対峙しているようです。

両軍膠着状態の中、夜になって辺見十郎太隊は可愛岳北側を回り俵野へ撤退しました。



8月15日に戦闘があったこの付近ですが可愛岳突囲においても戦闘が繰り広げられています。

今回は可愛岳突囲での薩軍前軍経路探索が目的なので少し内容を書きたいと思います。

先ず、文献を読み解くと前軍の指揮者が2通り書かれてます。

1つは相良長良・貴島清・松岡岩次郎。

1つは辺見十郎太・河野主一郎。

どちらが正しいのか判断がつきません。

高橋信武氏の【第九聯隊第三大隊第四中隊の西南戦争 8月】と他の文献を読んで疑問が出てきました。

薩南血涙史には俵野より三里(約12km)で桐野利秋と辺見十郎太が前軍に馳せて来て『敵の篝火がが多いので暫くこの地に兵を駐め全軍の来るのを待ち一気に敵塁を衝こう』と言ったが貴島・相良は『我らは先鋒の任を受けているので一歩も止まるわけにはいかない、唯一進んで死あるのみ』と話て進むこと数町、官軍が我が中軍の間を断つとあります。

桐野と辺見が話していた官軍の篝火は六首山の第ニ旅団哨兵だったのではないでしょうか。

高橋信武氏のブログには前軍の間を断った官軍は俵野の薩軍本隊を殲滅するため可愛岳北側の牙営を午前2時に出発した第ニ旅団本隊と書いてます。

征西戦記稿では第二旅団本隊は牙営を出てから六首山南側を下っています。


 
相良長良達の後側を第ニ旅団本隊が断ったとなれば相良達が六首山方面に進んだその頃に第ニ旅団哨兵と六首山で戦闘が始まらないと辻褄が合いません。

しかし、薩軍の六首山への攻撃は午前4時30分・英式喇叭と1発の銃声によって辺見十郎太と河野主一郎が前軍指揮で突出したとあります。



相良長良の上申書では空が少し明るくなって官軍に見つかり各塁より発砲され前軍は散々乱れて山中に逃れ、夜になり翌日険阻を越えて敵塁に斬り込みますが、官軍も頻りに激射してこれを防ぎます。

上申書には英式喇叭も銃声も官軍に向かって突出したなどありません。

それに空が少し明るくなってとありますから六首山での戦闘が始まる時間とは違います。(この時の日の出が午前5時半頃なので空が明るくなるのは午前5時頃ではないでしょうか)

仮に相良長良が六首山で戦闘をしているとしたら辺見・河野達の戦闘より後になる訳です。

どの文献にもそのような事は書かれていません。

これらを考えると相良長良達が戦闘をしたのは六首山ではなかったと思われます。

ここで仮説になりますが相良長良達は長尾山への稜線を進んでいたのではないかと考えます。

そうすれば第ニ旅団本隊が後側を断ったのも、明るくなって官軍に見つかり戦闘した事も辻褄が合います。

塁より発砲しているので前軍を見つけた官軍は長尾山からの稜線にいた第ニ旅団の右翼隊か別働第ニ旅団ではないでしょうか。

官軍の塁が今の所どこなのかわからないのでこれからの課題としておきます。



前軍に属していたが遅れて進んでいた河野主一郎は前軍を官軍が断った事から後退したと文献にはありますし、そこで中軍に属した可能性があります。

それにより河野主一郎と中軍の辺見十郎太が中ノ越辺りから西側に進んで六首山へ攻撃をしたのではないでしょうか。

これが辺見十郎太と河野主一郎が前軍の指揮者と書かれた文献もある理由なのかもしれません。

高橋信武氏のブログでは墜落した相良長良は8月19日に近くに残っていた薩軍兵と共に長尾山稜線守備の応援に来た第三旅団の2個中隊と戦闘しています。

薩南血涙史では19日の戦闘で相良長良・川久保十次・松岡岩次郎・福留某等は抜刀して敵塁に突入しましたが川久保は戦死、相良は負傷して谷に墜落しました。(この時貴島清の名前は出てきません。既に後軍へ移動していたと思われます)



この事から前軍だった相良長良は長尾山の稜線での戦闘で官軍の銃撃を避けるため谷を下ってから身を隠しました。

再度攻撃をしようとしたが急斜面を登るのは難しくて夜になり、翌日再び稜線の官軍へ攻撃を仕掛けたのではないでしょうか。


【六首山方面の戦闘】

8月18日午前4時30分頃
薩軍は英式喇叭と1発の銃声の後、辺見十郎太と河野主一郎の指揮で六首山付近にいた第ニ旅団哨兵に向かって抜刀して斬りかかりました。

突然の戦闘に少ない兵士で守備していた第ニ旅団哨兵は薩軍の勢いに押されて小畑山へ後退、浜砂まで逃げる兵士も出ています。

しかし、官軍も桑平から援隊が小畑山に進軍すると薩軍も押されて後退。

薩軍の辺見十郎太と河野主一郎が前軍として進んでは戻りを二度三度繰り返す戦闘をしながら小畑山にいる官軍を避けて山を下り、午前8時浜砂にて戦闘をして祝子川沿いを北側に向い、宮ヶ谷より再び山中に入り薩軍本隊と合流しています。

六首山での戦闘で第一旅団の迫田鐵五郎も戦死してしまいました。

第ニ旅団本隊も森木ノ坂を下りた辺りで六首山付近での銃声を聞き、二隊に分け六首山へ戻ろうとしますが森木ノ坂は急斜面で坂の上には薩軍がいたので登ることができなかったのではないかと想像できます。

この仮説で前軍の指揮者がなぜ2通りあるのかという疑問も解消した感じがします。

それに、この経路だと西郷臨末記に書かれている晩年の河野主一郎が語っていた中ノ越に西郷隆盛がいたということも間違えではないかもしれません。

まだ仮説なのでこれから探索して解明する必要がありますね。



それでは経路探索に戻ります。

中ノ越から六首山に向いますがまた塹壕が現れました。

11:59 標高540m地点です。

この辺の塹壕は事前に牧野会長から資料をいただいており、その資料を元に進んで行きます。

高橋信武氏 西南戦争の考古学的研究より


この資料から現れた塹壕は7番塹壕とわかりました。



すぐ近くには8番塹壕があります。

12:02 標高544m地点です。
 


資料を見ながら塹壕の確認していると他のメンバーはすでに先へ行ってます。

向かっている方向は9番塹壕の方でしたので急いで後を追いました。

その時、個人的に右側には14番・16番塹壕があるから見てみたいと思ったのを覚えています。

帰って再度調べたら14番塹壕は可愛岳突囲戦で官軍の第ニ旅団第九聯隊第一大隊長・石本少佐がいたと思われる場所でした。

今思えばなぜその時に声をかけなかったのかと悔やまれます。

いつの日か14番塹壕も探索しないといけませんね!

9番塹壕発見。

12:05 標高535m地点



会長と塹壕の確認をしている姿を南さんに撮られていました。笑



さらに進んで10番塹壕も確認。

12:06 標高535m地点



この付近で壮絶な可愛岳突囲戦があったんですね!

両軍が繰り広げた激戦の様子を実感できる場所です。

これまでの各塹壕の距離はこのようになっています。



7番~10番の塹壕は官軍第ニ旅団が構築したものでしょう。

その後、11番・12番塹壕を探しましたが残念ながら確認する事ができませんでした。

六首山山頂に向います。

12:38 標高571m

六首山山頂に到着。

この辺りに8月15日辺見十郎太が陣を構えていたと思うと胸が高鳴ります。

山頂には面白い大きな岩が3つ並んでいました。



ここで昼食休憩にします。



15分ほどして次の小畑山へ向い出発!

稜線なので樹木がありますが歩き易い路です。



皆初めての場所なので小畑山へどのように進むか方向を考えました。

方向を間違えれば崖や急な谷が待ち受けてますから携帯で地図をしっかり確認してから進んで行きます。

小畑山山頂に近づいてくると目の前にビックリするような巨石が現れてきました。





巨石群には人も入れるぐらいの穴もあり、刀等の持ち物を穴に投げ込み退却した兵士もいたと聞きました。

その話を聞いてお宝が残っていないか覗き込んだりしましたが何もなかったです。

ちょっと残念…と言うかスゴい巨石!


14:21 標高461m

小畑山山頂に到着。

この場所が8月15日の第ニ旅団の陣地で、これまで探索した路が薩軍前軍の経路でもあり、第ニ旅団が可愛岳北側の牙営へ向かった経路でもあります。


これで残るは浜砂まで下りるのみとなります。

時間も余裕があるのでゆっくり戻ろうと思っていたのですが…

進んだ先が急勾配!

樹木を掴んだりしゃがみながら慎重に下りて行きます。





しかし!

その先はさらに急な斜面っていうより崖で安全には下りていけない状況でした。



征西戦記稿では可愛岳突囲戦において薩軍兵の屍が240~250名とあり、官軍の失踪者が第一旅団・第ニ旅団合わせて36名とあります。

普通、失踪とは逃亡したと思われますがそれはないでしょう。

自分達が体験した急な斜面や崖などに滑落、途中に引っ掛かってしまい発見されなかった兵士達が失踪者として記載されたものだと思います。

それほどの激戦がこの地で繰り広げられた事を実感しました。

会長はメンバーの安全を考慮して無理に進まない決断をします。

元来た路を戻り時間が過ぎていく中、下りられるルートを検索することに…

自分の地図アプリと直感で傾斜の穏やかな谷を下り沢沿いに歩くルートを提案。

山に関しては素人である自分の提案をメンバー全員が受け入れてくれた事には感謝します。

でも、その時は大丈夫!行けますよ!と冷静な態度でしたが内心はかなりのプレッシャーでしたね…

緩やかな谷を下りていきましたが自分達の行く手を拒むように倒木が多い状況でした。



会長はメンバーを無事に帰す責任感から率先して倒木の間を進んで行きます。

小田原さんはちょっと不安そうな顔をしていましたね。

その小田原さんをしっかりサポートしてくれた南さん。(本当に有り難かったです!)

沢が滝になっていないか心配もありましたが、何事も無く無事に帰還しようというメンバー全員の思いが叶って浜砂に着く事ができました。

メンバー全員が安堵の表情になり、それまで無言でひたすら歩いていましたが、会話をするほど元気が出てきました。

無事下山できて良かったです。感謝!


探索終了時刻16:24 
探索総距離11.3km
探索総時間9時間

薩軍前軍経路(後半部分)の距離
起点の炭窯跡から浜砂まで5.8km
前軍経路踏破時間5時間24分






改めて山の怖さも実感しましたが薩軍前軍経路後半が解明されたのはとても感慨深いものでした。

浜砂に出てからしばらくすると会長の奥様が迎えにきてくれて、そのまま少し北上して宮ヶ谷いう所の前軍が西郷隆盛達と落ち合うために再び山へ入った場所を教えていただきました。

下の写真にある場所から前軍が再び山に入っていきます。

左側に野村忍介が延岡に本営を置いた頃から現地案内していた黒田萬吉宅がありました。

黒田萬吉は可愛岳突囲でも案内人となっています。





今回の探索経路全貌

南より


西より


東より


探索経路3D軌跡
(1分30秒 良ければ見て下さい)


今回の前軍経路探索は経路全体の後半部分です。

俵野(西郷隆盛宿陣跡)からの前半部分の探索をしていませんので、またチャレンジしたいと思います。

【今後の課題・探索】

薩軍前軍経路前半部分の探索
俵野~今回探索起点の炭窯跡まで

第ニ旅団の経路探索
・桑平~小畑山~六首山~中ノ越~牙営跡
(この経路が解明されると薩軍中軍も突囲戦で通ったことが解明される)

薩軍中軍経路の探索
・薩軍の戦闘手録には可愛岳の崖をよじ登ると書かれてあるものが多い。西郷隆盛が中ノ越に居たとなると中軍も複数経路があったのかもしれない。

長尾山からの稜線の探索
・自分の仮説では薩軍前軍の相良長良は中ノ越から長尾山の方へ向かったと考える。なので長尾山からの稜線のどこに塹壕があるのか探索する必要有り。       

第一旅団の経路探索
・浜砂~広野山~白木山~宮ヶ谷山~八水山~牙営跡

中ノ越から六首谷を通り浜砂までの探索
・一部の薩軍前軍が浜砂まで通ったと思われる