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御船での西南戦争の経緯①
1回目は松橋・宇土を占拠して北上してくる衝背軍別働第一・別働第ニ・別働第三・別働第四旅団と松橋・宇土から後退し緑川を守備線として迎え撃つ薩軍の激戦が行われたのが明治10年4月12日です。
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この戦闘で熊本から御船に駆けつけた薩軍三番大隊長・永山弥一郎が戦死しました。
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永山弥一郎は他の薩軍将校と違い明治6年の政変で鹿児島に下野していません。
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その頃、永山は陸軍少佐を辞し開拓使として北海道に赴いていました。
永山は西郷隆盛と一緒に下野した近衛将校を軽挙と批判します。
明治8年に軍に復帰し屯田兵を率いていましたが樺太・千島交換条約を政府が締結した事に憤慨して鹿児島に下野しました。
西南戦争前には大軍を率いて上京する事に反対していましたが仲が良かった桐野利秋の説得に折れ薩軍三番大隊長になります。
永山弥一郎が戦死した翌日、官軍の増援で屯田兵を率いた永山武四郎(血縁関係はない)が熊本に上陸。
もし、明治8年に下野していなければ永山弥一郎が屯田兵を率いていたかもしれませんね。
【西南戦争史跡】
永山盛弘(弥一郎)戦没の地
永山弥一郎は自軍の敗戦と負傷により自決を覚悟します。
この地にあった民家を買い取り家に火を放ち自決しました。(映画・半次郎では弥一郎が老婆に家を売ってくれとお金を渡したら老婆は鹿児島弁で話していました。ここは熊本なのにと違和感が残った事を思い出します。)
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薩軍本営跡
西南戦争時ここには酒蔵があり、薩軍本営が置かれていました。
負傷した身体で駆けつけた永山弥一郎は酒樽をひっくり返し、その上に腰掛け薩軍兵士に叱咤激励を飛ばします。
しかし、戦線は崩壊し四面皆敵になり永山弥一郎は御船川の対岸にあった民家を買い取り、火を放ち自刃しました。
現在本営跡には何もありません。
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昭和の頃の本営跡
案内板みたいな物が写っています。
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