西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡⑥ 宮崎県延岡市①

2022-04-12 18:20:00 | 宮崎県西南戦争史跡
延岡の西南戦争

ようやく耳川を渡河した官軍は富高新町に第三旅団・新撰旅団、細島に第四旅団、塩見に第ニ旅団、山陰に別働第ニ旅団の本営を置き駐屯、細島港を通じて武器・弾薬・食料を補給しました。

延岡攻略には別働第ニ旅団主力部隊は第ニ旅団と連携して黒木、曽木を攻略したのち延岡へ突入、一隊は第一旅団と連携します。

第三旅団・第四旅団・新撰旅団は門川に進撃、その後延岡に突入します。



海上には軍艦日進・孟春・丁卯・清輝を配置して艦砲射撃で援護しました。

明治10年8月14日未明、別働第ニ旅団が延岡市街地へ突入します。

薩軍は抵抗しますがこれを退け午前5時には制圧しました。

この時薩軍は市街地での大規模な戦闘を避け和田越方面へ撤退します。

この撤退は野村忍介の指示で、延岡には薩軍の野戦病院や弾薬製造所などが置かれ、延岡市民は薩軍に好意的だったのでそれに感謝の意を表したようです。



延岡隊最後の奮戦地跡

8月14日地元延岡隊はここ野田で政府軍と戦闘をしています。

薩軍が和田越方面へ走った事を知ると延岡隊は政府軍に投降しました。

これにより延岡隊は戦場から消えてしまいます。

しかし、翌日の和田越決戦に延岡隊士4人が参戦し鹿児島まで西郷さんと共にしています。








西郷隆盛宿陣跡 山内善吉宅

西郷隆盛が延岡に初めて入った時の宿泊地です。

8月2日から10日にかけてここにいました。

その間で薩軍司令部は延岡市街地での戦闘は避ける事を決めているようです。

8月13日に延岡の行政責任者である塚本長民区長は延岡を戦禍から救うために管轄していた薩軍奇兵隊長野村忍介に対し薩軍の延岡からの撤収を要請してます。

その要請を延岡地区の担当責任者であった池上四郎と協議されたとあります。

山内宅での軍議で決まったのか塚本区長の要請で決まったのかはっきりしませんが薩軍全兵は延岡より撤収し、和田越方面へ向かいます。

3500人ほどの薩軍全兵が延岡から和田越まで撤収、退却、転進したのですが土地感もないのに速やかで混乱もなかったそうです。

これほどの兵士が混乱なく撤収してるという事は塚本区長の要請よりも前に山内宅で延岡市街地から和田越へ転進する事が決まっていて薩軍全兵士に通達していたのではないでしょうか?










薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡⑤ 延岡市北川地区その3

2022-04-12 00:21:00 | 宮崎県西南戦争史跡
西郷隆盛宿陣跡 吉祥寺

明治10年8月12日西郷隆盛は吉祥寺に宿泊しました。

住職一山和尚は川坂の佐藤平四郎方からそば粉を取り寄せてそばがきを振る舞います。

西郷さんはことのほか喜び7杯もおかわりしたと伝わります。







西郷さんも見たと思われる吉祥寺山門からの風景。







西郷隆盛宿陣の跡

8月13日吉祥寺を出て笹首の小野彦治宅に宿泊します。

ここで2泊した際に最重要会議が行われています。

その会議で和田越決戦が決議され、西郷隆盛自身が陣頭指揮に立つ決意をしました。
 







小倉處平加療の地

日向国飫肥士族の小倉處平は飫肥隊を率いて薩軍に参加しました。



和田越決戦で負傷した小倉處平はここ神田伊助宅に逃れて加療しています。

薩軍の可愛岳突囲を知った小倉處平は籠に乗り薩軍の後を追い三足から高畑山に入りましたが官軍に囲まれてしまい行き場をなくし自決しました。











薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡④ 延岡市北川地区その2

2022-04-11 17:36:00 | 宮崎県西南戦争史跡
竜口隊 中津大四郎の墓

熊本士族中津大四郎は竜口隊を結成し薩軍に参加してます。

明治10年8月16日中津大四郎は竜口隊士等を政府軍に投降するように説得しました。

その後自分は隊の指揮者として責を負い自刃すると決め隊士等と永遠の別れをします。

自刃する前に中津大四郎は正装姿で西郷隆盛にこれまでの礼と別れを告げに訪れてます。

同郷の熊本隊、協同隊にも別れを告げ副隊長格であった小隊長の野口勝三を連れ本営の裏山で自刃…

介錯は野口勝三が行いました。

中津大四郎の亡骸は村人達に手厚く葬られ祠が建てられたそうです。

村に吉凶がある毎にその祠に祈りを捧げる習慣があったと云われてます。










成就寺薩軍病院跡

熊本隊佐々友房等の負傷者も入院していました。

成就寺に行くには国道10号線沿いに車を停めて並行するJR日豊本線を渡ります。

遮断機が無いので十分気をつけて渡って下さい。

ここには薩軍兵士の墓もあるようで3回ほど探しましたが残念ながら見つけることができませんでした。















薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡③ 延岡市北川地区その1

2022-04-11 16:29:00 | 宮崎県西南戦争史跡
北川地区には西南の役の史跡が多く残っています。

明治10年8月15日西南の役最終決戦である和田超えの戦いに敗れた薩軍は長井村俵野に敗走します。

官軍は和田越に別働第ニ旅団、長尾山に第三旅団、可愛岳に第ニ旅団、可愛岳北側に第一旅団、長井山付近に別働第一旅団、熊田に熊本鎮台、川島北側に第四旅団、川島に新撰旅団進んで俵野の薩軍を包囲していきます。



西郷隆盛は児玉熊四郎宅を本営として宿陣し、桐野利秋は児玉浩初治宅に宿陣します。

足を負傷している西郷菊次郎は本営の2軒隣にある児玉惣四郎宅で療養しています。

訪問した時、幸運にも菊次郎療養地で児玉惣四郎氏の子孫の方に会う事ができました。

その方の話では俵野に来た薩軍の少将達は高貴な雰囲気が漂う侍だったと祖母から聞いたと言われてました。

それにドラマように西郷隆盛や薩軍少将等を住民がもてなす事はなく、食料品を取りに行く以外は家には入れない状態だったそうです。

なので住民は西郷隆盛本人を見る事もなかったとのことでした。

8月17日に薩軍はここから可愛岳を越えて鹿児島へ向かいます。

薩軍本営 児玉熊四郎宅




家の中は資料館となっています。


西郷隆盛が軍の解散を宣言し陸軍大将の軍服を燃やした場所です。






桐野利秋が宿泊した児玉初治邸

児玉初治は薩軍の可愛岳突囲において先導役を務めています。






西郷菊次郎加療の地

西郷菊次郎が療養した家は改築されているが菊次郎が療養した部屋だけは子孫の方が当時の状態のまま保存、管理されています。






薩軍の可愛岳登山口













薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡② 宮崎県日之影町・北方町

2022-04-10 11:44:00 | 宮崎県西南戦争史跡
日之影町では明治10年6月24日から8月11日までの間、薩軍と官軍の戦闘がありました。

薩軍は総司令・池上四郎で正義隊・奇兵隊一部・中津隊・佐土原隊・延岡隊・高鍋隊・佐伯隊・農兵隊が三田井(高千穂町)から進軍する第一旅団を食い止めます。

新町を拠点に中村、大楠、大菅、白仁田で塁を築き第一旅団の進行を阻止しました。

7月4日官軍は一部の部隊を迂回させて新町に侵入し、5日に中村、大楠の薩軍に対して背後から攻撃を仕掛けて薩軍は敗走することになります。



薩軍は後退して椎畑に拠点を移し網瀬川沿いに守備線を巡らせます。

膠着状態の両軍でしたが官軍が8月10日攻撃を開始。

8月11日薩軍は更に後退してしまい官軍は椎畑を攻略しました。

連日の大雨で川は増水しており、薩軍・官軍共溺れる兵士が多かったとのことです。





【西南戦争史跡】


日之影町の弾痕石

薩軍が銃の練習で使ったとされる石

現在はコンクリートで補強されています













比叡山激戦地跡

8月10日・11日に官軍と延岡隊が戦闘しています。

現地には案内、説明文もなかったです。

ここへは綱ノ瀬川沿いを上るのだが道が狭く対向車が来ないかヒヤヒヤしながら運転しました。














西南の役古戦場 大楠台場

この台場は薩軍党薩諸隊の延岡隊が構築しています。



看板上の山に塹壕が残っていました。


北側に対して土塁が3ヶ所築かれています。






こちらの塹壕は西側に築かれており、三重の土塁になっています。

三重の土塁は初めて見ました。

外側の土塁は低いのですが真ん中と奥の土塁は高さが1mほどあり、立射ができる土塁です。

かなり堅固に築かれた塹壕でした。












つつじがくま官軍陣地跡

ここには官軍(第一旅団)が陣地を構築したようです。

詳しい説明がないので明確な内容は分かりません。



標柱後ろの山に上がってみます。


歩き回ったのですが残念ながら痕跡はありませんでした。








官軍陣地跡の標柱は他の史跡3ヶ所も書かれてます。