2016/1/7 僕は両親存命中は実家にほとんど行くことのない、親からすれば実に親不孝な愚息でした。それは親と別に住むようになった高校生のころから始まっています。数年間もの間、親と顔も合わせないことが続くのは普通のこと。ただ、結婚をすると、妻のために実家へ行くことが増えました。さらに、母が認知症等になると、母のため盆と正月には実家へ帰ることが決め事のようになりました。母が亡くなってしまうと、本当は帰る必要もないのですが、幾度も熊本へ帰っている間に僕の甥っ子家族と本当の家族のようになってきました。帰るところが今でもあることに、僕は心から感謝しています。
ただ母の顔を少しでも長く見ていたい、そんな母の生前には、可能な限り熊本にいる日を長く、東京との移動時間は短くというのが、僕のセオリーでした。でも、今は違います。
今回も東京から熊本へは3泊4日で行きましたし、熊本からの帰りは2泊3日の予定です。東京・熊本間の単なる移動では詰まりませんから、いろいろな場所へ寄ってみたいと思っているのです。
ところで、タイトルにも「第1回・京都の旅」とあるように、熊本からの帰路は当面の間、京都泊まりにして京都のあちらこちらを歩いてみようと思っています。
いよいよ第1回目の京都の旅は「大原」です。大原は僕にとって少し特別な意味のある土地なのです。それは後で話に出るかとは思います。それに、最近NHKの「猫のしっぽ カエルの手」の再放送を観ているものですから、大原には興味があるのです。
ちなみに、その番組を観ようと思ったきっかけはベニシアさんが梶山正さんの奥さんだからなんですね。梶山さんと言えば山屋ならよく知っている写真家ですよね。「へぇ~っ、梶山さんの奥さんメインの番組なんだ」「ちょっと観てみようかな」となる訳です。
▲大原のバス停です。京都駅から大原へ直通バスがたくさん出ていることは事前に調べて分かっていましたから、苦労もなく大原へは到着。10:58ころ。
▲京都駅前のバスの切符売り場のおじさんに「京都観光一日乗車券」の購入を勧められました。一日乗り放題で1200円です。
▲まずは寂光院へ行くことにしました。高野川を小さな橋で渡ります。右の建物は確か、喫茶店だったような・・・・? 11:10ころ。
▲朧(おぼろ)の清水です。この清水は飲めるような水ではないのですが、建礼門院徳子が京都からこの地へ訪れた際、この清水のあたりで日が暮れたのだそうです。朧月夜の明りに照らされた我が身のやつれた姿をこの水面に写して嘆かれたという話が伝わっています。
もちろん、建礼門院徳子とは平清盛の娘、高倉天皇のお后、安徳天皇の母です。壇ノ浦の合戦で安徳天皇は入水、徳子は助かり、寂光院で平家の菩提を弔うためにこの地へ来られた時の言い伝えです。すべてを失った徳子はこの水面に映る自分の顔を見てどのように思ったのでしょう。11:20ころ。
▲草生川沿いの大原女の小径を寂光院へ来ました。その小径は寂光院で終わっていて「この先行き止まり」との看板も出ているのですが、すごくその先が気になる雰囲気を漂わせていました。そうなると行かないわけにはいきません。すると「阿波内侍(藤原信西の息女)←墳墓」との看板も現われました。他にも4名の名前が列記してあります。すぐに左へ登って行く山道が分かれ、そこを登ったところにお墓があるようです。
写真は山道を登って出て来たお墓です。どのお墓が誰のものだかは僕には全く分かりません。阿波内侍とその他の侍女たちのお墓です。11:37ころ。
▲さらに上にもお墓がありました。「信洙院?蓮夢大童子」と読めます。その上には菊の御紋らしき模様も彫られています。誰なのでしょう? 11:39ころ。
▲たくさんのお墓が並んでいます。11:40ころ。
戻って、寂光院に入りました。
▲拝観の順路は決まっています。階段を登って行くと、右に見えるのがこの茶室「孤雲(こうん)」と池のある庭。茶室の名前は建礼門院が粗末な庵室に貼っておられた「笙歌(せいが)遥かに聞こゆ孤雲の上 聖衆来迎(しょうじゅらいごう)す落日の前」との歌にちなんでいます。11:51ころ。
▲山門をくぐると、本堂が見えます。何事もなかったかのように静かに建っていますけれど、実はこの本堂は平成12年5月9日、放火による火災で焼失してしまったのです。重要文化財の地蔵菩薩立像や建礼門院像と阿波内侍像も焼けてしまったのです。その後、宮大工と大仏師の手により再興されました。多くの人々の悲しみや願いが凝集している本堂なのです。11:53ころ。
▲四方正面の池。本堂の右側にある庭は回遊式四方正面の庭と言うそうです。その中核たる池ですが、小さくても水の清い美しい池でした。11:55ころ。
本堂左手前の汀の池を通り、いったん西門から外へ出ました。
▲寂光院に隣りあってあるのがこれです。御庵室遺蹟と書いてありますが、建礼門院の住まいが建っていた場所です。小さくて質素な庵室だったようですね。
『平家物語』最後を飾る「灌頂の巻」はまさにここ建礼門院の庵室が舞台です。建礼門院を大原に尋ねた後白河法皇と建礼門院が対面する場面なのだとか。最初は会うことを拒んでいたのですが阿波内侍の説得でお会いになり、建礼門院は自分の半生を語ったのだそうです。法皇やお供の者たちも涙するばかりだったとか。実に『平家物語』の最後にふさわしいシーンですね。12:09ころ。
最後に宝物殿を見て、帰りました。寂光院は初めてでしたが、静かで、あまり観光地っぽくなく、建礼門院が遠く都を離れて閑居した雰囲気がわずかなりとも残っているようでした。
▲同じ道を引き返します。お腹が減って来ましたから、どの店に入ろうかと探しました。地元の料理を出してくれる店もあったのですが、結局この「朧道」という店で僕はカレーライス、S子はパンケーキを食べました。美味しかったです。13:17ころ。
再びバス停に戻り、今回は三千院へ向かいます。
▲途中、椿地蔵さんのところでちょっと道から外れ、景色のいい所へ出ました。ベニシアさんの番組でよく見るような大原の風景ですね。13:47ころ。
▲三千院への参道は呂川沿いの道です。昔はこんなお店は並んでなかったような・・・・? 13:51ころ。
▲三千院のすぐ前の通りには立派なお店が並んでいました。昔はまったくありませんでしたね。13:54ころ。
▲三千院の正面入口、御殿門です。13:55ころ。
御殿門を入ると、順路は左へと。受付を経て建物の中へ入りました。建物の中は撮影を遠慮しますから、写真はありません。
▲庭の苔が見事でした。冬ですから、瑞々しい輝きには欠けていますが、それでも美しい。14:14ころ。
▲順路に従って庭を歩きます。途中、往生極楽院やわらべ地蔵や弁財天などがあります。そして、ここが金色不動堂。秘仏金色不動明王が御本尊だそうです。確かこの左側、写真からは外れた場所にある建物の中で、昆布茶を無料でふるまわれました。中国人観光客も数人いました。美味しかったので、その昆布茶も購入。商売が上手ですね。14:18ころ。
▲観音堂です。この両横には小さな数センチほどの観音像が名前入りで奉納、安置されています。数えきれないほどありました。14:26ころ。
補陀落浄土を再現した慈眼の庭を通り、律川の流れが見えて来ます。その向こうに何やら石の像があるので。行ってみました。
ちなみに、三千院へ来る手前の川は呂川でしたよね。呂川と律川。呂と律。そう、呂律「呂律(ろれつ)が回らない」という言葉の「呂律」はお経を唱える声明(しょうみょう)の呂様と律様からきた言葉です。
▲茫洋とした雰囲気の大きな石仏です。価値が高いのかそうでもないのか、よく分からない、そんな俗な判定からも無縁な様子なのです。調べると、どうやら鎌倉時代中期の浄土信仰を物語る貴重な阿弥陀如来なのだとか。そんな知識を持つことでしか、やっと「へぇ~っ」と感じ入ることのできない自分の愚かさというか、権威主義みたいなものを反省してしまいます。14:33ころ。
▲紫陽花苑を歩きました。もちろん紫陽花は短く切られて何もありませんけれど、午後の陽射しに光る苔の輝きが紫陽花にもまして美しく感じました。14:36ころ。
▲三千院を出ました。次へと歩いていたら、大原陵がありました。後鳥羽天皇と順徳天皇の陵墓です。両天皇ともに鎌倉時代、承久の乱で敗れ、隠岐の島と佐渡ヶ島で崩御なさいました。遺骨の一部が都に持ち帰られ、大原法華堂へ納められたのだそうです。建礼門院もそうですが、大原は悲運の人が深く関わる土地なのですね。14:49ころ。
▲大原陵の先に勝林院があります。天台宗の寺院で、声明の道場として高名なお寺だとか。14:52ころ。
今回の大原での寺院巡りはこれで終了です。いい時刻になってきましたから、もうひとつの目的のために歩きたいと思います。
それは、僕の沢登りの原点を探す旅。20代のころ、大原の民宿に泊まったことがあります。夕方、小さな流れに沿って散歩しました。そのうち道はなくなり、沢沿いの山道になります。午後の陽射しを浴びて小さな水の流れは輝き、フキノトウのまだ固い芽吹きも同様に煌めいていました。なだらかな流れでしたから、山道が消えてからも沢沿いに歩き登りました。少し傾斜が緩くなり、お椀の底のような地形になると、その先には少し急な斜面が長く続いていましたから、散歩もここまでとしたのです。水が流れる周囲には初春の命が輝いていました。水の流れ沿いに山を歩く素晴らしさを感じたのです。
それで東京に戻ると、すぐに奥多摩の沢を登ってみました。記憶に残っていた林道脇の流れを登ろうとしたのです。林道すぐ下のなだらかな滝を登山靴を履いたまま登り始めました。当然、滑ります。裸足になりました。何とか登れましたが、すぐに垂直の滝が出現。高巻きという言葉は知りませんでしたが、当たり前のように左側から高巻こうとしていました。でも、危険だと直感的に分かります。その日はそこまででした。沢の名前は日原川のカロウ川谷。
その後、沢登りの本やルート図集を発見し、独力で沢登りを経験して行ったと言うわけです。
▲勝林院とともに平安時代前期に円仁によって創建されたお寺、来迎院へ至る道。この呂川が僕の沢登り原点の川ではないかと、辿って行ってみました。でも、結局分かりませんでした。昔、それも40年ほど昔とはずいぶん変貌しています。この川だったとしても、川の周辺の様子は変わってしまっているようです。まあ、分からなくても僕の記憶の中では鮮明ですから、一向に構いませんが。15:04ころ。
▲三千院前の道を南へ行くと、大原念仏寺がありました。たくさんのお地蔵さんが並んでいます。15:23ころ。
そのままぶらぶらと南へ歩きます。僕の昔の記憶には全くなかった観光客用の駐車場があったりします。自分が歩いている道も車道になっていますが、昔は土の道だったような。
観光客が多く行く場所、そしてその周辺にはすでに大原の良さは消えてなくなっていると感じました。都から遠く離れ、鄙びた山間の邑。しかし、高貴な文化と歴史の香りも濃く漂わせている邑。そんな大原は今はもうないようです。
▲高野川を越えて「里の駅 大原」へ行ってみました。観光コースから外れると、雰囲気のいい大原の里が広がっています。16:13ころ。
▲右の山は比叡山近くの山なんでしょうか? 近いうちに比叡山へ行ってみたいと思っています。16:32ころ。
▲戸寺バス停まで来てしまいました。ここから京都駅へ帰ります。16:49ころ。
京都では1泊目は龍馬軍鶏農場京都駅前店で、2泊目は京の都庄屋烏丸七条店で夕食にしました。京都では何を食べたらいいのか、まだよく分かりませんから、京野菜のメニューを幾つか頼みました。その中に九条ネギを使ったメニューがあったのですが、東京へ戻ってから同じ庄屋で同じ九条ネギのメニューがありましたから食べ比べてみたのです。圧倒的に京都の店の方が美味しかったですね。ネギを輪切りにしてたくさん載せてあるだけなのですが、京都のお店では細かく丁寧に切ってあるのです。京都が1mm幅に揃えて切ってあるとすると、東京で行った店では2~5mmで幅もバラバラですし、広いですから食感がぼそぼそなのです。九条ネギの味そのものも辛みが強くなって、美味しくありません。さすが京都だなぁと、東京に戻って来てから感じた次第です。
今回の大原の旅はどうしても40年ほど前の印象と比較してしまいます。40年前に勝てるわけがありませんよね。でも、機会があればもっと大原の普通の道を歩いてみたいと思いました。それに、大原起点でハイキングコースも幾つかあることが分かりましたから、今度は京都に3泊4日くらいして、1日はハイキングに当てようかとも考えています。
その意味ではいろいろと収穫のあった最初の大原の旅でした。京都には見るところ歩くところがたくさんありました。
京都駅そばのホテルで今回は2連泊しました。熊本との往復では初めての経験です。翌朝、東京へ帰りました。
ご参考までに熊本から京都、京都から東京の電車乗り換えの実際を記しておきます。
【1月6日】熊本5:51~6:47荒尾6:56~9:52(電車が遅れ、連絡が予定通りにならず)門司10:09~10:16下関10:32~11:39新山口11:53~13:54岩国13:55~16:13糸崎16:23~17:55岡山18:00~19:25姫路19:27~20:59京都
【1月8日】京都8:19~9:14米原9:16~9:53大垣10:11~11:39豊橋11:42~12:15浜松12:29~13:14島田13:25~15:08熱海15:11~16:21横浜16:27~17:25八王子~
今回の青春18きっぷの旅を金銭面で総括してみたいと思います。(すべて二人分です)
・青春18きっぷ 11850×2=23700円
・近鉄 3220円
・内宮から伊勢市駅までのバス 600円
・京都でのバス 2400円
◆交通費トータル 29920円
・名古屋のホテル 5980円
・伊勢市のホテル 8300円
・岡山のホテル 6800円
・京都のホテル 11800円(2泊分)
◆宿泊費トータル 32880円 ■全トータル■ 62800円
行きも帰りも新幹線(自由席)を使って旅をすると、宿泊費はもちろんかかりませんが、二人でいくらかかるかというと、102680円です。
39880円、青春18きっぷの旅の方が安上がりなのです。もちろん施設への入場料等もかかりますけれど、大した額ではありません。その分、食事などを少し贅沢にすることが出来ますね。