発掘された銭貨について
最北の城柵官衙遺跡で、国指定史跡の秋田城跡で発掘された古代銭貨は、皇朝十二銭の和同開珎銀銭1枚・銅銭2枚、萬年通寶5枚、富壽神寶1枚と唐銭の開元通寶2枚だ。この他には、中世の遺構から、明銭や宋銭が出土し、判読不明な銭貨や鉄銭も出土している。また、近世遺構からは江戸期の寛永通寶が出土し、遺構内からは縄文土器も出土しており、秋田城跡の遺構のある地域が長い年月人々が住み続けていた土地であった。
秋田市寺内大畑の秋田城跡外郭東門の内側から出土した萬年通寶5枚は、報告書によると「貨銘を上面にほぼ北向きに5枚並べられ埋納時に動いたのか位置関係に規則性は見られないが、須恵器短頸壺に入れられて萬年通寶の表面に腐食した布目の圧痕があり、底に布にくるんだ胞衣が納められ、須恵器の蓋がきっちり被せられている状態の所謂、胞衣壺である。また、壺には、5ミリ程度の小さな鉄片が底面に確認され胞衣由来の血液成分からは、B型男子の可能性が指摘されている。」と記されているが、胞衣壺に関する解説は、初期の「史跡秋田城跡」のパンフレットに「「胞衣壺」は生まれた子供の成長と立身出世を祈り土の中に埋めるもの」と記されている。
しかし、萬年通寶5枚について何故5枚なのか気になっていた。
2015年1月22日14:05更新の産経ニュースで「十字形に並べられた甕、中には古代銭「富寿神寶」が5枚ずつ…「地鎮」の意味が込められる? 平安初期の「手原遺跡」」の記事が配信された。
その配信記事の概要は「古代銭を5枚ずつ納めた甕計5点を十字の形に並べて埋めたとみられる平安時代初期の遺構が、滋賀県栗東市手原の手原遺跡からみつかり、同市教委が21日発表した。銭貨を納めた甕を埋めるのは「地鎮」の意味があるとされるが、市教委は「十字に並べられたケースは全国で初めての出土。当時の祭祀のあり方を考える上で貴重な成果だ。平安初期(9世紀後半)に建てられた大型の建物跡1棟のすぐ南側にあった穴から、土師器の甕5点が十字に並んだ状態でみつかった。穴は1辺約70センチの方形で、十字はちょうど東西南北の方角と合っていた。大型の建物は、豪族の屋敷か役所だったとみられ、建物跡と穴の位置関係などから、この建物を建てる際の地鎮の目的で埋められたとみられる。 甕はそれぞれ土師器の杯で上部を覆われ、中には818年から国内で鋳造されていた古代銭「富寿神宝」が、5枚ずつ入っていた。また、1つからは桃の種がみつかった。甕がみつかった穴からは、祭祀で使ったとみられる灯明用の杯も出土し、穴の四隅には、別の杯が伏せられた状態で埋められていた。市教委は「地鎮のための遺構では甕を1つ埋めるケースが多い」と記している。
十字に並んだ状態は、平面上の位置関係を考えると四隅と中点と考えることができ、四方を拝した上で中心を抑える地鎮のための埋めものと考えることができる。
地鎮のための例としては、岩手県奥州市の国指定史跡胆沢城跡の「地鎮の長頸瓶」がある。胆沢城跡の政庁北東の北方官衙跡で発掘された遺跡には、一辺4.2mの四隅に長頸瓶が埋められ中央の瓶には酒が満たされ坏で蓋がされていた。奥州市埋蔵文化財センターの「おもしろ考古学 古代東北ワールド」25頁には「天や地に向い四方の神に平和の祈りをささげたのでしょう」と記されている。胆沢城は、坂上田村麻呂が802年(延暦21)に築き、1083年(永保3)の後三年の役の頃まで約150年にわたり鎮守府として機能したので、戦乱に明け暮れた城柵の状況を考えるとこのような表現になったと思われる。
村瀬勝樹「地鎮・鎮壇の考古学的研究」には、「人は、土地を利用する際に建築や土木工事などを行う。そして、敷地や建物の安寧を土地の神に祈願する儀礼を行うことで、その土地を鎮め、清浄ならしめようとする。発掘調査においては、建物の基壇や敷地・建物に関連する土坑より土地神を供養する品々を納めた容器や鎮物が発見されることがある。土地の神を供養する儀礼を地鎮や地鎮め等と総称することもある。」と記し、興福寺南円堂の平成五年の大修理の折りの地鎮と鎮壇について「十八層の基壇盛土に土を盛る度に皇朝十二銭の散供を繰り返して行なっている。これは、特に奈良時代に盛行した土地神に銭貨を与えて土地を鎮める、地鎮作法の形式の一つである。」という記述がある。
中央は天地、四方は東西南北の土地の神を鎮めるためと考えて良いだろう。733年(天平5)に出羽柵が移された秋田城、802年(延暦21)に築かれた胆沢城、平安初期の「手原遺跡」で出土した銭貨などの埋納の仕方は、時代あるいは地域による形式の変化が見られるが、地鎮を目的とした埋納であろうことが明らかになった。加えて、秋田城跡外郭東門の内側から出土した萬年通寶5枚を含む胞衣壺も地鎮の役割も兼ねた鎮めものだったことが推察される。壺に5枚の萬年通寶・5本の長頸瓶・5個の甕に各5枚の「富寿神寶」は、村瀬の論考にある「興福寺南円堂の大修理時に、十八層の基壇盛土に土を盛る度に皇朝十二銭を散供を繰り返して行なっている。」という皇朝十二銭の散供を器物に銭貨などを納めて埋納し、土地の神へ供えて地鎮を行なうようになったと考えられる。
最北の城柵官衙遺跡で、国指定史跡の秋田城跡で発掘された古代銭貨は、皇朝十二銭の和同開珎銀銭1枚・銅銭2枚、萬年通寶5枚、富壽神寶1枚と唐銭の開元通寶2枚だ。この他には、中世の遺構から、明銭や宋銭が出土し、判読不明な銭貨や鉄銭も出土している。また、近世遺構からは江戸期の寛永通寶が出土し、遺構内からは縄文土器も出土しており、秋田城跡の遺構のある地域が長い年月人々が住み続けていた土地であった。
秋田市寺内大畑の秋田城跡外郭東門の内側から出土した萬年通寶5枚は、報告書によると「貨銘を上面にほぼ北向きに5枚並べられ埋納時に動いたのか位置関係に規則性は見られないが、須恵器短頸壺に入れられて萬年通寶の表面に腐食した布目の圧痕があり、底に布にくるんだ胞衣が納められ、須恵器の蓋がきっちり被せられている状態の所謂、胞衣壺である。また、壺には、5ミリ程度の小さな鉄片が底面に確認され胞衣由来の血液成分からは、B型男子の可能性が指摘されている。」と記されているが、胞衣壺に関する解説は、初期の「史跡秋田城跡」のパンフレットに「「胞衣壺」は生まれた子供の成長と立身出世を祈り土の中に埋めるもの」と記されている。
しかし、萬年通寶5枚について何故5枚なのか気になっていた。
2015年1月22日14:05更新の産経ニュースで「十字形に並べられた甕、中には古代銭「富寿神寶」が5枚ずつ…「地鎮」の意味が込められる? 平安初期の「手原遺跡」」の記事が配信された。
その配信記事の概要は「古代銭を5枚ずつ納めた甕計5点を十字の形に並べて埋めたとみられる平安時代初期の遺構が、滋賀県栗東市手原の手原遺跡からみつかり、同市教委が21日発表した。銭貨を納めた甕を埋めるのは「地鎮」の意味があるとされるが、市教委は「十字に並べられたケースは全国で初めての出土。当時の祭祀のあり方を考える上で貴重な成果だ。平安初期(9世紀後半)に建てられた大型の建物跡1棟のすぐ南側にあった穴から、土師器の甕5点が十字に並んだ状態でみつかった。穴は1辺約70センチの方形で、十字はちょうど東西南北の方角と合っていた。大型の建物は、豪族の屋敷か役所だったとみられ、建物跡と穴の位置関係などから、この建物を建てる際の地鎮の目的で埋められたとみられる。 甕はそれぞれ土師器の杯で上部を覆われ、中には818年から国内で鋳造されていた古代銭「富寿神宝」が、5枚ずつ入っていた。また、1つからは桃の種がみつかった。甕がみつかった穴からは、祭祀で使ったとみられる灯明用の杯も出土し、穴の四隅には、別の杯が伏せられた状態で埋められていた。市教委は「地鎮のための遺構では甕を1つ埋めるケースが多い」と記している。
十字に並んだ状態は、平面上の位置関係を考えると四隅と中点と考えることができ、四方を拝した上で中心を抑える地鎮のための埋めものと考えることができる。
地鎮のための例としては、岩手県奥州市の国指定史跡胆沢城跡の「地鎮の長頸瓶」がある。胆沢城跡の政庁北東の北方官衙跡で発掘された遺跡には、一辺4.2mの四隅に長頸瓶が埋められ中央の瓶には酒が満たされ坏で蓋がされていた。奥州市埋蔵文化財センターの「おもしろ考古学 古代東北ワールド」25頁には「天や地に向い四方の神に平和の祈りをささげたのでしょう」と記されている。胆沢城は、坂上田村麻呂が802年(延暦21)に築き、1083年(永保3)の後三年の役の頃まで約150年にわたり鎮守府として機能したので、戦乱に明け暮れた城柵の状況を考えるとこのような表現になったと思われる。
村瀬勝樹「地鎮・鎮壇の考古学的研究」には、「人は、土地を利用する際に建築や土木工事などを行う。そして、敷地や建物の安寧を土地の神に祈願する儀礼を行うことで、その土地を鎮め、清浄ならしめようとする。発掘調査においては、建物の基壇や敷地・建物に関連する土坑より土地神を供養する品々を納めた容器や鎮物が発見されることがある。土地の神を供養する儀礼を地鎮や地鎮め等と総称することもある。」と記し、興福寺南円堂の平成五年の大修理の折りの地鎮と鎮壇について「十八層の基壇盛土に土を盛る度に皇朝十二銭の散供を繰り返して行なっている。これは、特に奈良時代に盛行した土地神に銭貨を与えて土地を鎮める、地鎮作法の形式の一つである。」という記述がある。
中央は天地、四方は東西南北の土地の神を鎮めるためと考えて良いだろう。733年(天平5)に出羽柵が移された秋田城、802年(延暦21)に築かれた胆沢城、平安初期の「手原遺跡」で出土した銭貨などの埋納の仕方は、時代あるいは地域による形式の変化が見られるが、地鎮を目的とした埋納であろうことが明らかになった。加えて、秋田城跡外郭東門の内側から出土した萬年通寶5枚を含む胞衣壺も地鎮の役割も兼ねた鎮めものだったことが推察される。壺に5枚の萬年通寶・5本の長頸瓶・5個の甕に各5枚の「富寿神寶」は、村瀬の論考にある「興福寺南円堂の大修理時に、十八層の基壇盛土に土を盛る度に皇朝十二銭を散供を繰り返して行なっている。」という皇朝十二銭の散供を器物に銭貨などを納めて埋納し、土地の神へ供えて地鎮を行なうようになったと考えられる。