2017年9月18日(月)の秋田魁新報10面鴻池朋子「かかとに棲む狼」と読売新聞13面 藤村龍至「考景2017 黒い瓦と土地の記憶」には、心をえぐられる重い表現が散りばめられている。共に、9月3日(日)から10月22日(日)まで開催されている「奥能登国際芸術祭」に関する文章でした。
鴻池朋子「かかとに棲む狼」は、副題ー人をはねのける場の力・崖の先端に作品を置くー鴻池の作品は、意表を突く激しいものですが、作品を見ていないにもかかわらず読む者の心をえぐるのは、設置する場所の特別な位置と設置のための作業の激しい表現です。崖っぷちに立たされている人間の現状を作品に込めている気持が伝わってくるのです。「作品は生きているからずっと途中、常に変容し年をとっていく。その動的なものは誰にも捕まえることなどできない。」という鴻池の言葉は、重いものです。
藤村龍至「考景2017 黒い瓦と土地の記憶」は、最後に「設営で珠洲市内の展示会場を訪れていたあるとき、ゴミのなかに原子力発電所に反対する集会のポスターを見つけた。珠洲は原子力発電所の立地が長らく議論されてきた場所でもある。同じ「さいはて」の青森県下北半島は原発や関連施設の立地を受け入れた。原発が立地しなかった珠洲がどのように新しい時代の産業を作って行くのか。芸術祭は問いかけているように感じた。」という、珠洲市へのエールで締めくくられています。
考古学の分野では、珠洲系焼き物といわれている珠洲焼は、日本海に突き出した能登半島の先端に位置する珠洲郡-現在の珠洲市と 能登町の一部を含む地域-で、平安時代末の12世紀に生産が始まりました。
14世紀 には、珠洲郡は、日本列島の四分の一を流通圏とする、日本有数の焼き物生産地に 成長しました。珠洲系の焼き物が出土する遺跡は、能登半島との交易があったことや焼き物のみならず、様々な文物や人の移動などの交流があったことを彷彿とさせる意義があります。
珠洲市には、これからも新しい産業の振興と共に文化の発信基地としてのリーダーシップをとって欲しいと考えています。
文化財遺産オンライン・史跡名勝天然記念物<珠洲陶器窯跡>本州の日本海に突出する能登半島の先端に分布する大規模な中世陶器の窯跡である。東西約15km、南北約20kmの範囲内に窯跡が分布し、数基単位からなる支群が12、総計40基以上が丘陵上に点在している。珠洲焼は須恵器系の中世陶器で、近世以降生産が途絶したことから、その存在は戦後に確認された。窯は12世紀後半ころから15世紀末ころまで継続し、製品は北陸から北海道に至る日本海側沿岸地域に広く供給され、城館や集落に普及した。窯の構造は基本的に単房の地上式窖窯で、最終末の西方寺1号窯のみは完全地下式である。製品は還元焔焼成で灰色を呈し、器種は中世陶器通有の壺・甕・すり鉢の3種が大半を占める。初期には経筒・仏神像・水瓶等のほか土錘などもみられる。製作技法は、粘土紐巻き上げののち叩き締め・ナデで成形し、刻文・刻印・櫛目文のほか秋草文など豊富な文様を加える。窯構造や製品の技術系譜は、東播磨の須恵器系窯を主とし常滑・渥美など東海の瓷器系窯の影響もみられる。窯跡の大半が能登最大の荘園である若山荘の荘域にあり、その関与が推定されている。珠洲陶器窯跡は、広大な北東日本海域に流通した大規模窯であり、この地域の広域の生産と流通の実態や生活や信仰、社会・経済のあり方を知る上で欠くことのできない遺跡である。