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馬の話

2021-01-09 22:48:29 | 記録
 馬の家畜化と搾乳は5500年前から今のカザフスタン北部の草原に暮らしていた人々が行っていたという研究結果が2009年3月5日発行の「Science」に英・エクセター大学の考古学者アラン・ウートラム氏によって発表され、乗馬と搾乳による家畜化は1000年早まることになった。銜を噛んでいた歯の摩耗、野生種と比べて家畜化による細い足の骨、陶器壷の縁周辺の破片に付着していた馬の脂肪と馬乳の脂肪分が決め手となった。
 2018年2月22日の「Science」は、ゲノム研究によって最古の家畜化されたという馬の個体群とは別の馬のグループが紀元前3000年前までに家畜化された馬の個体群の祖先になったと発表した。先の説の馬のゲノムは復元されておらず真相は不明のままだ。
 さて、馬が歴史の転換点で重要な役割を果たしてきたことは、枚挙に暇がない。移動や物資の運搬と量を飛躍的に増大させ、戦術や武器・武具の工夫が戦闘を変質させたのだ。
 大和では、子どもがいなかった武烈天皇薨去後、仲哀天皇の末裔の倭彦王を丹後から迎えようとしたが逃亡したので思案の末、応神天皇の末裔の男大迹王を越前から迎えることにした。男大迹王は河内馬飼部首荒籠を派遣し、詳細な調査結果を吟味判断して、大伴金村の求めに応じて樟葉で即位し、継体天皇となったことが日本書紀第十七巻507年継体天皇元年の条に記されている。戦術の中枢を担う馬飼部の役割の大きさが分かる逸話だ。
 平安時代の歌枕として知られる「尾駁の駒・牧」は、江戸時代の紀行家菅江真澄の遊覧記「おぶちの牧」に長年の念願が叶った心情が吐露されている。真澄は尾駁の牧で草を食んだり飛び跳ねたりしている駁馬を躍動する筆使いで描いた。「尾駁の駒・牧」は、尾駁の駒が古歌に登場する時期と一致しているが、青森県六ヶ所村発茶沢遺跡の竪穴住居に付随する掘立柱建物跡が馬屋だったのではと推察されている。北秋田市鷹巣の胡桃館遺跡附属建物跡との共通点があり、共に火山灰由来の黒ぼく土の大地が広がっている。
 915(延喜15)年8月18日に爆発し、この2000年間で日本最大の噴火だったと考えられている十和田御倉山の噴火の被害は、毛馬内火砕流が周囲を焼き払い分厚い堆積物が土石流となってシラス大洪水を引き起こし、米代川流域に災厄をもたらした。この被害の実態を示す火砕流に埋まった住居跡が大館市比内町の片貝家下遺跡だ。シラス洪水は、鹿角・大館・北秋田を経て能代に至り日本海に堆積した。米代川流域の鷹巣の胡桃館遺跡・小勝田遺跡の発掘からも火砕流に埋もれた住居跡が見つかっている。そして、この爆発によって良質な黒ぼく土が形成されたと考えられている。黒ぼく土は、樹木が育たず、イネ科の植物が生育する特徴があり、イネ科植物を好む馬などの放牧に適している。岩手・宮城には今も多くの牧場があるが、黒ぼく土は北海道・東北・関東・九州に多く見られる。
 飛鳥時代に設置されたという諸国牧・近都牧や「延喜式」による4ヶ国の勅旨牧(信濃(16ヶ所)、甲斐(3ヶ所)、上野(9ヶ所)、武蔵(4ヶ所))にも該当しない常陸以北の蝦夷地は、これらの牧の管理が律令制の崩壊が進行し、衰退する頃に牧機能を担い良馬を産出するようになったと思われる。聖獣とされている駁馬の購入を懇願する貴族たちが牧を訪れていたと思われる帯金具や瑪瑙の蛇尾などが六ヶ所村表館遺跡から出土している。
  優れた馬産地の盛岡藩と仙台藩の馬は、五代将軍綱吉の政策や八代将軍吉宗の時代に「馬喰馬」購入の仕組みの確立後、江戸幕府購入の馬は「御馬」と呼ばれるようになる。
  7世紀から9世紀の遺構の青森県八戸市の丹後平古墳群からは、馬具の轡や馬の埋葬墓、砥石、帯金具、朝鮮半島由来の獅噛式三累環頭大刀柄頭などが出土し、岩手県北上市の江釣子古墳群からは、国内最多の蕨手刀、鉄簇、勾玉、管玉、轡などが出土しており、北鬼柳の八幡遺跡からは馬の描かれた土器が出土している。蝦夷地の古墳群に馬に関する遺物があり、貝塚からはモウコノウマの骨が出土している。撹乱や移動と考えられて馬の存在は評価されていないが、蝦夷地では早い時期に馬が活用されていたと推測される。
 秋田市新屋の日吉神社の神馬像が昨年末10年をかけて修復された。青い馬体に七曜星の水玉模様が描かれている。七曜星は、遣唐使の空海が帰国時に持ち帰った『宿曜経』によるもので、江戸時代までは吉凶判断に用いられた。平安貴族が争って手に入れることを望んだ駁馬は、吉凶を我が手に治める手だてでもあったのだ。現在、七曜は週の各名称として用いられている。『宿曜経』による「日・月・火・水・木・金・土」が七曜である。
 瑞兆とされ神の乗り物である伊勢神宮の神馬は、白黒斑毛の斑馬である。馬は、斎宮の土馬を経て鶴斑毛の御彫馬として献納され、木馬、絵馬へと形を変えていく。平城京跡・多賀城の市川橋遺跡・秋田城跡・払田柵跡などの国府・国衙で発掘された絵馬は、皆駁馬である。法隆寺壁画の源流といわれる「屈鉄線」描の壁画、ダンダンウイリク遺跡「如来・騎馬人物図」にも斑馬に騎乗した諸侯が描かれている。神の乗り物・神の使いとされる馬は神社に奉納され、今も神馬を飼育している神社が全国にある。祭礼の折りには、流鏑馬が神亊として奉納され、放たれた鏑矢が大気を切り裂き邪気を祓う。

 「我が君の手向けの駒を引きつれて行末遠きしるしあらわせ」梶原景時

 「としふともおもひしままにみちのくのその名をぶちの牧のあら駒」菅江真澄