かりんとうの小部屋Z

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富野由悠季氏、アニメを語る(前編)

2009年07月09日 13時53分19秒 | サブカルとかテレビとか
ミクシーでみつけて面白かったから転載します。
「Business Media 誠」 の記事です。

アニメ『機動戦士ガンダム』の監督として知られる富野由悠季氏が7月7日、東京・有楽町の日本外国特派員協会に登場し、講演を行った。

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 『機動戦士ガンダム』の放送30周年を機に招かれたもので、50人ほどの記者や一般参加者を前に、自らの半生や映画哲学などについて語った。

 率直な語り口が特徴的な富野氏。今回もしばしばヒートアップしながら、30分ほどの講演と1時間ほどの質疑応答が行われた。

●ディズニー作品の動きに驚いた

 50~60年前、僕が子どもの時代(富野氏は67歳)には、漫画と言われているものは基本的にゴミ箱に毎日捨てられるようなものでした。また、アニメではなく漫画映画と言われているような特別なもの、ディズニーの長編漫画映画に代表されるようなものしかありませんでした。

 それでも、長編漫画映画としてのディズニー作品だけは特別でした。僕が小学校の時代に学校のクラス単位で映画を見る時間があって、その時にディズニーの長編漫画映画だけは見せられました。あれは今にして思うと、日本が敗北して、(米国の)占領政策下で米国人が作った漫画映画を黙って見させられたんだと思います。

 しかし、10歳くらいの自分の感覚でも、手描きの絵、オールカラーであのように動かせる技術と根気は大変なものだと理解しました。そういう意味では、「学校が誘導してくれなければ、僕はああいう漫画映画を見る機会はなかった」と思っています。

 『バンビ』『シンデレラ』『ピーターパン』などの作品を見て気になったのは「なぜこんなに暴力的に動かなければ(あまりに速すぎる動きをしないと)いけないのか?」ということです。「そういうものが改善されない限り、漫画映画は市民権を得られない」と思っていました。そして何よりも僕には、「物語が子どもだましのものではないか」という嫌悪感がありました。ただ、「手描きの絵であれだけ動かすことができる」という意味においての根気とそういうシステムを構築したディズニーというプロデューサーには大変優れた能力がある、とは理解しました。

●虫プロダクションのアニメは“止まっていた”

 僕は11歳の時、手塚治虫先生の『鉄腕アトム』という漫画が(雑誌「少年」に)連載されたことによって、「漫画も読み物になるんだ」ということを理解させられました。

 矛盾する話なのですが、手塚先生の『鉄腕アトム』はディズニー的なキャラクターで作られたものです。その部分が気に入ったというのは、多少自分にとっては悔しいことでした。「なぜ悔しいか」というと、戦争に負かされた米国のものが好きになってしまう自分というものを発見するからです。ただ、『鉄腕アトム』は「漫画でも都会的な作品が作りうるのではないか」と予見させてくれました。

 僕が大学を卒業して、手塚先生の虫プロダクションに入社することができたのは、手塚治虫ファンだったからではありません。ほかに就職する口がなくて、虫プロダクションが拾ってくれたから就職したのです。本当にこれは偶然でした。(日本大学芸術学部)映画学科の学生ですが4年間勉強したとは言えない……、4年間居ただけの学生ですが、一応映画的な仕事に就けるという意味で虫プロダクションで“妥協する”ことができたのです。

 そして、虫プロダクションでは驚くべきことを知りました。ディズニーのアニメは“動いている”のに、虫プロダクションのアニメは“動いていない絵を使って二十数分止める”という(映像が動いていないように見える)番組を作っていたことです。

 そのようなスタジオでしか働けない自分の能力を情けないと思いながらも、そういう現場を見ていくうちに思ったことが1つあります。止まっている絵、動かない絵であってもそれをテレビモニターで鑑賞する時には、リアルタイム(で動いているように見えること)を要求されるわけです。つまり映像で流れる絵も、基本的には映画を作るのと同じ構造で作りうると理解しました。

●宮崎駿は作家であり、僕は作家ではなかった

 その次に自分が職業上知ったことがあります。それはテレビシリーズの作品を任せられた時、ストーリーの決定権を得た時です。つまり、「公共の媒体を使って物語を提供するということとはどういうことか」を考えざるをえなくなったのです。

 それを考えた時、具体的に出典は思い出せないのですが、児童文学を書くためのハウツーものを読んだ時にあった1行が、僕にとって現在までの信条になりました。「その子にとって大切なことを本気で話してやれば、その時は難しい言葉遣いでも、子どもはいつかその大人の言った言葉を思い出してくれる」という1行でした。つまりアニメのジャンルに関わらず、「子どもに向かって嘘をつくな。作家の全身全霊をかけろ」と僕は理解しました。

 その上で、僕は“巨大ロボットもの”というジャンルの専門家としての仕事に進むようになったのですが、その理由はオリジナルストーリーを作ることができるからです。生活費をもらいながら物語を作る訓練を毎週させてもらえるので、巨大ロボットジャンル(のアニメ制作)は大人にとって魅力的な職場になったのです。ですから必ずしもこのジャンルの作品が好きで現在まで来ているわけではありません。

 オスカーをとっているスタジオジブリの宮崎駿監督のように、僕がなれなかったのはなぜか? 彼とは同年齢なのですが、「彼は作家であり、僕は作家ではなかった」。つまり、「能力の差であるということを現在になって認めざるを得ない」ということがとても悔しいことではあります。

●アニメや漫画を考えることで作品が作れるとは思うな

 巨大ロボットジャンルを30年続けてきましたが、そこには素晴らしいことがあります。どういうことかと言いますと、おもちゃとしてのマシン(メカ)、アニメーション的なファッション(を描けるだけではなく)、どのような性格のストーリーも描ける媒体であるということです。(だからこそ)この30年間、飽きることなくこのジャンルで仕事ができるようになりました。

 また、大人を対象とする物語では、内向する物語が許されます。現実という事情の中でのすりあわせしか考えない、社会的な動物になってしまう大人にさわらないで済む物語を作ることができた、という意味ではとても幸せだったと思います。また、大人向けを意識した時、「一過性的な物語になってしまう」という問題もあると思っています。(そうした物語から離脱できたことで)政治哲学者のハンナ・アーレントが指摘しているように、「独自に判断できる人々はごく限られた人しかいない」と痛感できる感性が育てられました。

 今の日本では、アニメや漫画はかなりの大人までが鑑賞しているものになっています。その風潮の中、僕のような年代が1つ嫌悪感を持っているのは、「アニメや漫画を考えることで作品が作れるとは思うな」ということです。つまり、「アニメや漫画が好きなだけで現場に入ってきた人々の作る作品というのは、どうしてもステレオタイプになる」ということです。必ずしも現在皆さん方が目にしているようなアニメや漫画の作品が豊かだと僕は思いません。

 だから、「もし、僕が次にガンダム的な作品を作らせてもらえるという機会があるならば」ということで設定したテーマがあります。先ほど名前をあげたハンナ・アーレントが指摘しているような意味での全体主義の問題が(世の中には)あるんだ、ということを物語の中に封じ込められる作品を、ロボットアニメやかわいいアニメで作ってみたいという野心を持つようになりました。

 「今のようなことが言える自分になった」という意味では、「ガンダムという作品は自分にとって、やはりとても大事なものであった」と思えます。また、そのような認識を手に入れさせてくれたという意味では本当に感謝しています。そして何よりもこのような作品を手に入れたからこそ、今日この場にも呼んでいただけたと思います。本当に心から感謝します。

Business Media 誠 (提供元)


富野由悠季氏、アニメを語る(後編)

2009年07月09日 13時51分09秒 | サブカルとかテレビとか
アニメ『機動戦士ガンダム』の監督として知られる富野由悠季氏が7月7日、東京・有楽町の日本外国特派員協会に登場し、講演を行った。『機動戦士ガンダム』の放送30周年を機に招かれたもので、50人ほどの記者や一般参加者を前に、自らの半生や映画哲学などについて語った。

【拡大画像や講演会の様子】

●ガンダムは“リアルロボットもの”

――今年でガンダムは30周年ということですが、なぜこんなに長く人気が続いたと思いますか? また、「ディズニー作品はストーリーが子どもだまし」とお話されましたが、ガンダムのストーリーはそれとどう違うのでしょうか?

富野 30周年まで人気が続いた理由がもし分かっていれば、こんなにジタバタしていません。僕は来年に向けての作品も作っているのですが、そういうのが分からないから成り行きでやるしかないということです。

 ただ、うぬぼれた言い方を1つだけさせてもらいます。人型のマシンを“モビルスーツ”と規定した僕の才能があったから今日まで(ガンダム人気は)持ったのです。モビルスーツという造語によって、「ただの子ども向けのジャイアントロボットものとは違うテイストがあるのではないか」と思ってくれたファンがいたということ。恐らくそれが一番重要な原動力になって今日まで人気が続いたのではないかと思います。ガンダムは“リアルロボットもの”という言い方で評価されている部分もあります。

 「ディズニーの物語はシンプルすぎる」と多少嫌悪感を持って話しましたが、実を言うと物語はシンプルであるべきです。ただ、ガンダムの場合は、敵味方が同じ人間同士だったのです。それまでこのジャンルの作品の敵は宇宙人でした。敵味方のキャラクター(人間)が入り乱れる物語を作るということだけでも極めて斬新に見えたし、普通のドラマを描けました。それは、ディズニーが長編漫画映画でやっていなかったことです。

 ですから、「子ども向けだからやさしい物語を作る」のではなく、「戦場の物語だからこうなってしまう」という物語を、アニメーションのキャラクターを使って描いただけのことです。映画としてどう面白く構成できるかということしか気を付けなかったので、どのように含蓄のある物語があったかということではないと思います。

 動く絵、つまり子どもが見ても大人が見ても分かる表現手法によって物語られているのが映画的な手法だと思っています。基本的に「映画というものは観客の年齢を限定しないで済む媒体だ」と理解しているのが僕の立場です。ですから僕の立場で言えば、「ロボットが出てくるから売れる」と理解されている限り、ガンダムの原作者として敗北だと思っています。

――ガンダムから始まり、『新世紀エヴァンゲリオン』や『マクロス』でもそうだと思うのですが、主人公が10代の男の子で、戦争に巻き込まれて、ある日突然ロボットか何かのなかに入って、ちょっと考えるだけで操作できるようになる。こういうヒーロー像が出てくる文化的背景はどこにあるのでしょうか?

富野 おもちゃ屋さんがスポンサーだからです(笑)。

 でも、この言い方は半分は絶対的に正しいです。この絶対条件をのむためにどうするかと考えたわけです。「全長が18~20メートルの人型兵器が運用できる物語世界がどこにあるんだろうか」と考えた時に、重力下では絶対に動かないと想定されたので、宇宙戦争にすると決めました。

 また、毎週新しい兵器、つまりモビルスーツが出てこなければいけない。毎週新型のモビルスーツが出てくるだけの経済力があるのは国家レベルでしかないということで宇宙戦争にしました。「地球と月までのスペースの中で国家を成立させることができるか」と考えた時、スペースコロニー※というアイデアがあったおかげで国家を形成することができました。

※スペースコロニー……宇宙空間に作られた人工の居住地のこと。

 そして、「戦車や航空機レベルのものを、子どもがなぜ見た瞬間に操縦できるか」ということについては、“超能力者”であるという設定をしました。ただ、30年前でも超能力者という概念はSFの世界ではすでに使い古されていた概念でした。そこで、ファーストガンダム(『機動戦士ガンダム』)の主人公アムロに関しては“ニュータイプ”ではないかという設定にしました。

 このニュータイプという定義付けがとても難しくて当時はできませんでしたが、最近ようやくできるようになりました。

 我々は今環境問題、エネルギーが少ない地球というものに直面しています。現在までの人類の能力論や経済論だけでは、1000年という時間を我々は地球で暮らせないわけです。

 そういう問題が具体的に分かってきた時に、日本人でも「人類が生きのびるためには、ニュータイプにならなければならないのではないか」という考え方を持つ人が出るようになってきました。30年前の「アムロはニュータイプかもしれない」といった概念が、ようやくここで定位しつつあります。「我々は現在以上の能力を持てる可能性にチャレンジしなければいけない」「チャレンジする意味もあるのではないか」、つまり(ニュータイプは)全部がフィクションではないというところに到着することができました。

 (同じニュータイプでも)アムロはガンダムしか操縦できませんでしたが、我々はエネルギーがなくなった地球でも1万年生きのびることができるかもしれない。人にはそういう可能性はあるのではないかというシンボルに(ニュータイプは)なりうるのではないか、ということが僕の中にあるこの1年間のニュータイプ論です。

 今までこのように言葉にすることができなかったのですが、視聴者が「何かそういうものがあるのではないか」という期待を込められるものであったために、ガンダムは30年間生き続けてたと思っています。そのため、先ほど名前を挙げられたようなほかのタイトルとは実を言うと基準が違うんです。(エヴァンゲリオンやマクロスと)比べるな!!

 自分の想像力がなかったということで、本当に反省してもいるのですが、今回お台場にできたガンダムを見て、とてもビックリしています。力を感じました。その力は何かと言うと、おもちゃカラーの持っているピースフルなカラーリングは、21世紀の我々にとって絶望するなという色で、兵器の姿ではないんだということを思い知らされたのです。僕はこれは想像しませんでした。「プラスチックモデルの1分の1(原寸大モデル)ができたらみっともないだろう」という嫌悪感しかなかったのです。

 あのおもちゃカラーは、子どもたちが好きなカラーです。あの色の組み合わせが持っているものは、恐らく大人が考えているようなしゃらくさい政治論とか経済論を乗り越えているのです。だから、あの上に立った新しいコンセプトというものを我々が手に入れることができれば、絶対に人類は1万年生きのびられると思っているのです。しかし大人の知見で、今の日本の国家のバカどもが言っているようなレベルで物事をやっていけば、「お前ら、日本国家100年持たねえぞ」「そろそろそういうことを分かれ」ということです。

 別の言い方をすると、「国立メディア芸術総合センター」みたいなことを言っている政治家たちはあのおもちゃカラーをダシにして117億円を使って平気なんです。来年の維持費のことは考えていないのです。

 ただ、「おもちゃカラーはそういうものを乗り越える何かを持っている」という意味では、僕は新しい“自由の女神像”になるのではないかと思っています。その自由の女神像という言葉は実を言うと僕の言葉でありません。ある人が3カ月前、僕をなぐさめてくれました。「絶対に自由の女神像になるよ。だからそんなに自己卑下するな」と。そういう言葉をかけてくれる日本人が身近にいるということも、自分にとっては今になってみるととても誇らしいことだと思っています。だから言うんです、「ほかのアニメと比べるな」と。ただのアニメじゃないんです。ただのロボットものじゃないんです。ガンダムってかなりすごいんですよ。

――以前、宮崎駿監督がここに来た時に言ったことなのですが、どの作品にも寿命というものがあり、映画については30年が限界ではないかと言いました。ガンダムはすでに30歳です。今の若い世代にもガンダムは何か訴えることがあるのでしょうか?

富野 先ほどニュータイプの話をしましたが、「これから50年生きのびる」ということではありません。我々のリアルな命題を(ガンダムでは)定義しているわけだから、残るしかないじゃないですか。そういう意味では、とても不幸なことだと思います。

 今の質問でとても重要な問題が1つあります。宮崎監督は作家として作品論を言っていますが、ガンダムは作品として完結していないのです、ガンダムはコンセプトしか定義していなくて、実を言うと作品になりきっていないのです。そういう意味で僕は「宮崎監督に負けた」という敗北感を持っているのですが、根本的に宮崎さんのお話している作品論とガンダムは寄り添っていません。

――ガンダム以前に監督をされた『無敵超人ザンボット3』でも人対人の関係ができていたと思うのですが、それにガンダムは影響を受けていますか?

富野 その部分に関しては多少作家的な意識が働いていて、影響されないようにガンダムワールドを構築しました。ザンボットの要素がガンダムに入ってくることは排除しました。そうしましたので、影響はしていません。ただ、1人の人間が作るものは幅が狭いですから、そういう影響が皆無かと言われればそれは皆無だとは思いません。

●日本のアニメの未来は

――日本のアニメ業界では、韓国や中国に仕事をアウトソースするようになっています。日本のアニメの黄金時代は終わり、未来のアニメは韓国や中国が担い、日本のアニメは衰退するのではないでしょうか?

富野 誠に申し訳ないのですが、アニメをほとんど見ていないので状況がまったく分かりません。おっしゃられているような意味はかすかに分かりはします。創作行為の流れとしては当然、日本は今は衰退期だと思ってはいます。しかし、いつまでもそうであると思っていないという部分もあります。

 この数年、文化庁メディア芸術祭の審査員もやりました。それから大学関係の学生の仕事やなども見せてもらっているので、その今の世代がどのようにアニメに向き合っているかという姿は多少承知しています。

 質問の答えにはならないのですが、今アニメーションという媒体に関しては危険な領域に入っていると思います。どういうことかと言うと、個人ワークの作品が輩出し始めていて、スタジオワークをないがしろにする傾向が今の若い世代に見えているということです。スタジオワーク、本来集団で作るべき映画的な作業というものをないがしろにされている作品が将来的に良い方向に向かうとは思っていません。

 中国と韓国に関してはお国も力を入れているという状況もあって、それなりに作品が出ていることは事実です。新しい環境の中で、新しいジャンルに挑んでいる新しい才能も見ることができるので、日本の現状から見た時に強敵が立ち現れているという感覚はあります。

 ただ、不幸なことが1つあります。技術の問題です。デジタルワーク、つまりCGワークに偏りすぎることによって、昔、映画の世界であったスタジオワークというものが喪失し始めている。そのため、豊かな映像作品の文化を構築するようになるとは必ずしも思えないという部分があります。ハリウッドの大作映画と言われているものがこの数年、年々つまらなくなっているのは便利すぎる映像技術があるからです。

 韓国、中国、香港、台湾のように映像開発の後発国は、いきなりデジタルを手にして映像創作の領域に踏み込んできたわけですから、彼らは今面白くて面白くてしょうがない。しかし、彼らは本来的な意味での映像の機能についての癖を正確に認知しているとは思えない。ただそれに関して言うと、日本もそうですし、ハリウッドの人たちもデジタルの危険性というものをあまり認識していないように見えます。

――「日本アニメの衰退期は長くは続かない」ということですが、これから日本のアニメ業界を盛り上げていくものはどういうところから出てくると見ていますか?

 その質問についても同じ解答しかできません。分かっていれば私がやっていまして、「来年のヒットを全部取るぞ」ということです。

 ただ、文化的な行為ということで言えば、どのように過酷な時代であっても、逆にどんなに繁栄している時代であっても、その時代の人々はその時代に対して同調する、もしくは異議申し立てをするような表現をしたくなる衝動を持っています。そういう意味でも、人間というのは社会的な動物であると思います。

 そうすると、この不況からこれから2~3年少しずつ景気が良くなっていくという時代に刺激された世代、20代後半から30代前半の人々が、「まったく違う形のアートなり芸能のスタイルというものを打ち出すのではないか」と思っています。最近、ニュースになっているマイケル・ジャクソン氏の例を挙げれば分かる通りです。『BAD』以後のことを考えた時、もうそれから20年超えている。(新しいものが)出てこないわけがないんです。その(世代の)人たちの持っているポテンシャルというものが発露されるのがこれから2~3年、新しい形、違う形での文化論やカルチャー論、アートが現れてくると思っています。

 1分の1のガンダム像を見た時、想像しなかった威力があるということが分かり、ひょっとするとあんなものからでも発信するような何かがあるような気がしています。問題なのは、自分が日本人だから日本人の中からそういうものが出てきてほしいと思うのですが、海外の反応の方がピュアです。この1カ月、悔しいのですがネットをチェックすると、1分の1について海外の方がピュアな反応があるのです。ピュアな感触の方が恐らく次の何かを生むための感覚を醸成し、何かを生み育てるのではないかなという気がしています。「日本人は慣れすぎている」という感じがちょっとします。

――先ほどコンピュータテクノロジーに大きく依存することの危険性に触れましたが、コンピュータテクノロジーに依存することが例えば作品とか作る人たちにどういう悪影響を与えるのか、もう少し詳しく教えてください。また悪影響を与えているとすればどう解決すればいいのでしょうか。

富野 コンピュータ一般というよりも、コンピュータのシステムというものを改めて考えてみると、「コンピュータのシステムとはこういうことではないか」という発想を思いつきました。「よくできた官僚システムじゃないか」ということです。

 どういうことかと言うと、システムが作られた時にはある理念を持って始動したわけですが、よくできたシステムというのはシステム個々に独立し始めるわけです。そのシステムが存続を要求し始めるわけです。すると、そのシステムの中にいる人が意志を発動できなくなってくる、という歴史を実は我々はずっと見てきたのではないか。

 中国では300年王朝が続いた例というのはほとんどありません。システムが永遠に稼働しきれないというものを我々は見てきているはずです。西欧も別の形で実験していて、君主制から帝国主義、そして植民地覇権主義までいった時に何が起こったかというと、システムが存続しきれなくなる。植民地覇権主義などは、システムを存続させるために始動した(システムの)はずなのにです。

 なぜそういうものが瓦解していくのかということと、ネットのシステムというのは基本的に同じではないのかということを今ふと思いつきました。これレトリックかもしれませんが、僕は感覚的にはかなり納得がいきます。そうするとどういうことかというと、“システムの中にいる我々”という風になってくると、ネット検索をするというのはシステムの中で検索している個でしかないわけです。

 またちょっと別の話をしますが、天才と呼ばれている人は地球を救ったことはありません。消費を拡大させただけです。なぜ彼らが地球を救うところまでいかなかったのかというと、頭だけで考えているからだと思います。

 質問者への答えになりますが、我々は実は社会的な動物、群れている動物です。ですから解決方法は1つだけあるのです。「自分が生んだ子は育てなければならない」ということです。ところが、僕自身がすでにそうなのですが、子どもが生まれてずっと毎日見守って暮らしてきた父親かというと、僕はまったく父親失格でした。仕事だけやっていましたから。それでは社会的な動物の行為をしていたとは、今になると思えないのです。

 ガンダムの中でも意識的に使っている言葉があります。“お肌のふれあい会話”と言います。肌と肌が触れ合うコミュニケーション以上のものはないはずなのですが、我々はそれを決定的に投げ捨てている種になってしまったのではないかと思います。

 社会的な動物である我々は、仲間と一緒に子育てをしていかなくてはなりません。しかし、子どもを見て育てるということをしない今の環境を考えた時、本来この環境を変えていかなければならないと考えなくてはいけないのですが、この簡単な命題に対してアクションすることを我々は忘れているのです。赤字を出した大会社の社長がいまだに高額の天文学的な給料をとることを恥と思っていない人類なんてもうおかしいでしょう。これ分かりにくいですかね?

●アニメという媒体の強み

――今のアニメスタジオはヒット作品を作らなければいけないのですが、小さな会社では中々リスクをとれないという現状があります。全体主義という話とも関連するのですが、これについてどう思いますか?

富野 (どういう作品がヒットするかという)問題に対して我々が回答を持っていないからこそ悪戦苦闘しているのであって、回答を持っていれば誰も何もやりませんし、勝手に暮らしていると思いますので、「成功する方法があったら教えてください」としか言えません。

 僕が全体主義の言葉を持ち出した理由として、1つはっきりとした想定があります。「愚衆政治、多数決が正しいか」ということについては正しいとは言えない部分があるし、つまらない方向にいくだろうという部分もあります。本来、ヒットするアートや作品というものは絶対に利益主義から生まれません。固有の才能を大事にしなければいけないのに、全体主義が才能をつぶしている可能性はなきにしもあらずです。ただ、スタジオを経営するためには『トイストーリー』を作り続けなければならない、という事情があることもよく分かる。「じゃあそこをどういう風にするか」ということについては、やってみなければ分からないから、やるしかないのです。

――将来の夢ということで、ロボットのジャンルを使って全体主義の危険性について訴えたいとおっしゃっていたと思うのですが、ジョージ・オーウェル※についてどう思いますか。何か影響を受けていますか?

※ジョージ・オーウェル……著作『1984年』で全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描いた。

富野 誠に申し訳ないのですがジョージ・オーウェルは1冊も読んでいません。存在は知っています。コンセプトも解説文程度は知っています。なぜ読まなかったか、なぜ避けてきたかというと、もともと小説が読めない人間で、SFも読まない人間だからです。

 ただ、オーウェルについて承知していることがあります。オーウェルの時代の言葉使いで語られている全体主義論、社会主義論は、現代に持ち込んだら伝わらないだろうということです。つまり、「作品として固有な存在であればあるほど、時代性の表現に取り込まれてしまって未来につながる表現になっていない」という感じがオーウェルからにおってきたというのが僕の感触です。

 自分の恥を語るのですが、ハンナ・アーレントを知ったのは2008年です。ハンナ・アーレントの考え方は僕とかなり近いものがあって共感は持ったのですが、あの文章の書き方ではハンナ・アーレントが一般的に愛される政治哲学者になるとは思えませんでした。

 彼女が指摘しているものの考え方でビックリしたことは、「歴史を冷戦以前と以後で区切るべきだ」ということです。2007年までの僕は、歴史というものは第二次大戦前と後と考えていたのです。しかし、彼女が指摘している通り、冷戦以前と冷戦以後で根本的に世界構造、それと認識論も違います。

 2008年に知ったということは今も勉強中で、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』は今読んでいる最中です。ですからまだ全容は分かっていませんが、少なくとも彼女のものの考え方のロジックを一般化するために、アニメという媒体はとても便利だと、ようやく理解することができるようになりました。つまり、「アニメという表現媒体は時代性に支配されずに、コンセプトを伝える媒体なのかもしれない」と明確になったわけです。

 ハンナ・アーレントは「テロというのはアルカイダが起こすのではなくて、全体主義が起こすものだ」ということを言っているのですが、今の話をお分かりになる方はそんなにいないと思います。これから30年かけて、これを分からせたいということです。

 もうちょっとだけやさしい話をすると、ハンナ・アーレントが言っている言葉で一番好きな言葉は政治というのはどういう行為かということです。彼女は「人と人の間をつなぐのが政治である」と説明しています。日本の政治家は恐らく政治というのは選挙をやることが政治だと思っているのではないでしょうか。

 僕は幸いにして年寄りになりました。年寄りの立場からでしたら、こういうような言葉をロボットアニメのスタイルやかわいい系のアニメに加担して物語ることができるのではないのかなというぐらいの欲望を持っていいのではないかと思うようになりました。

Business Media 誠 (提供元)