江戸川教育文化センター

「教育」を中心に社会・政治・文化等の問題を研究実践するとともに、センター内外の人々と広く自由に交流するひろば

そうだったのか出島

2022-08-17 | 随想
昨年に引き続いて「原水禁大会長崎大会」に参加してきた。
原水禁大会については、また別に報告するとして、昨年は見学できなかった出島資料館を訪ねることができたので、
そのことについて報告したい。


出島については、「江戸時代に鎖国中の日本と西洋の唯一の窓口」として教科書に書かれている。
なかなかそれ以上のことは、資料集などにも書かれていないのだが、
今回復元途中(長崎市は、100年計画で復元プロジェクトを進めているらしい)の出島と資料館を訪ねて、
初めて知ったことがいくつもあったのでそれをお知らせしたい。

まず、出島は長崎湾に作られた人工島だが、江戸時代初期に湾を埋め立てて人工島を建設したのは、誰だと思われるか?
たぶん「江戸幕府がつくった」と考える方が多いのではないか?
実は、違うのである。
ではだれがつくったのか?
このことも、教科書には、書かれていない。

この答えの前に、出島で行われていた貿易についても知らなかったことが多い。
当初の貿易相手国は、ポルトガルだったのだが、島原の乱をきっかけに、「キリスト教の禁教」政策がとられ、
出島に在勤していたポルトガル人は国外追放となり、
代わりに平戸のオランダ商館が出島に移されることとなって、貿易の相手国はオランダとなった。

さて、どのようなものがオランダから輸入され、日本から輸出されていたのであろうか?

山川出版社の「詳説日本史図録」(第7版)には、1636年と1715年の輸入品とその額が載っている。
輸入額は、1715年が1636年の2分の1の規模に縮小しているのだが(その理由も興味深いが、残念ながら解説されていない)、
輸入品の上位は「生糸」と「絹織物」なのである。

1636年はこの二つで全体の8割、1715年では、4割を超えているのである。
また、砂糖が輸入されていて(1715年は15%)これによって長崎から大坂にかけて「シュガーロード」が形成され、
それぞれの土地での菓子の材料になったとのことだ。
なるほど長崎カステラが名物になるわけだと納得する。

では日本からの輸出の主力商品は何だろう?
なんと、「銅」なのだそうだ。
確かに、出島の近くには、銅座川・銅座町があったのだが、銅が輸出品だったとは知らなかったので、ちょっと驚いた。

その銅は、四国の別子銅山、秋田の尾去沢鉱山で採掘された鉱石が、大坂の銅吹き所で精錬され、
「棹銅」(銅の延べ棒)に加工されて長崎出島に運び込まれ、
幕府の役人とオランダ商館の担当者の検品を経て、オランダ船に積み込まれたとのことだ。
実はもともとは、銀が輸出されていたのだが、江戸幕府が銀の国外流出を止めるために、
銀を輸出禁止にしたために銅が主力商品になったということだ。


さて、出島を作ったのはだれかだが、なんと、長崎の貿易商人たちなのだそうだ。
つまり、私有地なのでオランダの商館側は、年間で今の価格で約1億円にもなる賃貸料を支払っていたとのことなのだ。

歴史の授業では出島についてこんなことまで「深堀り」することは無理かもしれないが、
教える側があれこれ知っていることは、無駄ではあるまいと思う。



(出島のジオラマ)



(復元された出島の街並み)

2022/8/16

-K.H-

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