江戸川教育文化センター

「教育」を中心に社会・政治・文化等の問題を研究実践するとともに、センター内外の人々と広く自由に交流するひろば

江戸川区にも東京大空襲の痕跡が(江戸川平和行進:慰霊碑巡り)

2016-03-08 | 江戸川区教組
また今年も3月10日がやって来ます。

首都東京が、アメリカ軍のB29大型爆撃機によって無差別爆撃を受けました。
日本家屋を研究し尽くした焼夷弾による意図的な襲撃は悲惨なものでした。

それによって、およそ10万人の尊い命が失われました。
あれから、今年で早くも71周年を迎えます。

下町を中心とした地域が焼き尽くされましたが、江戸川区にも被害が及んだのです。
木造住宅が密集していた小松川・平井地区を中心に800人以上の人々が殺されました。

街は大きく復興し、今では当時の面影はほとんどありませんが、僅かながらしっかり戦災の痕跡を残しているものもあります。


3月6日、「江戸川平和運動センター」は区民によびかけ、この戦争の傷跡とも言うべき貴重な遺跡や慰霊碑を巡りました。
当日は、運動センター加盟の各労組や市民団体等から多くの方が参加して3時間近くの行程を終えました。


以下に、出発地である北葛西の安楽寺から小松川さくらホールに隣接する「世代を結ぶ平和の像」までのフィールド学習した様子を写真で紹介します。

尚、来る3月10日には、小松川さくらホールで「第28回東京大空襲江戸川区犠牲者追悼式」が開催されます。
この式典と、併せて開催中の戦争資料展にも是非参加していただきたいと思います。



①安楽寺の先代住職さんが、戦争当時の悲惨な様子を話してくれました。境内には戦災犠牲者を洗ったと言われる古井戸がありますが、この日は葬儀のため見学できませんでした。住職の奥様から美味しい甘酒をいただきました。








②平和行進は新川を渡り、船堀駅を過ぎ、一路北へ向かいました。






③東小松川三丁目の正徳寺にある水子地蔵尊は、台座と地蔵の足が炎で溶けた痕跡が見られました。








④東小松川二丁目の宝積院にある大イチョウは、炎で片側が大きく焼けましたが、今では植物の生命力で黒く焼けただれた跡形も見られないほどに復活しました。尚、この木は江戸川区の保存樹木に指定されています。








⑤西小松川町にある仲台院の入口には二つの庚申塔が、戦災の炎で溶けた跡がはっきり見られました。








⑥東小松川二丁目の泉福寺に着き、疲れた足を休めました。ここには戦災犠牲者のために建てられた平和観音像と奇跡的に燃失を免れた厄除けのお堂がありました。参加者全員で記念撮影をした後に住職の岡田さんから、今ある戦争の危機と原発の危険性はつながるものだという話を伺い、3月29日のカメリアホールで行われる「チェルノブイリの祈り」への参加呼びかけもされました。










⑦行進は進路を西に変え、中川とそれに並ぶ荒川を渡りました。右手奥にはスカイツリーも見えました。
  







⑧ようやく終着点の小松川三丁目公園にある旧江戸川区役所文書庫に着きました。この建物は当時この地にあった区役所の建物が全焼失した際にもコンクリートブロック製のために焼け残りました。貴重な戦災遺跡として保存されています。尚、この場所には、文書庫の保存から中心的に係わられた故藤田昇さん(元助役・教育長)をはじめとする「世代を結ぶ平和の像をつくる会(現在は世代を結ぶ平和の像の会と改称)」によって建てられた「世代を結ぶ平和の像」があります。(1991年に平井コミュニティー会館に建立、1995年に現在地である小松川三丁目公園に移設)
旧文書庫の修復工事が行われた1989年(平成元年)に第一回の江戸川区戦災犠牲者追悼式が行われました。その後、毎年恒例の平和行事として江戸川区に定着しました。今年も3月10日に挙行されます。
平和行進の締めくくりとして、「世代を結ぶ平和の像の会」の現会長である楠田さんからこの文書庫や平和の像にかかわる話がありました。













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