江戸川教育文化センター

「教育」を中心に社会・政治・文化等の問題を研究実践するとともに、センター内外の人々と広く自由に交流するひろば

学びは関係性で決まる ⑤

2017-11-08 | 随想
宿題は学びとは真逆のものかもしれない。
それこそ、関係性で言うならば、子どもたちが宿題をやるのは担任との約束事として勝手に担任が決めたものに他ならない。
その意味では、これも「関係性はできていても学びにつながっていない」例であろう。

では、どういう関係性の下でどんな動きがあったら良いのか?
具体的な場面で考えてみよう。


先に例に挙げた女性教員の授業を観察していて気付いたことがある。

過去10回ほどの総選挙の投票率を棒グラフ化した資料(印刷物)を子どもたちに配布して観察させようとした。
関心のある子は、早くも発言したくて挙手をする。
しかし、彼女はすかさず指示をする。
「この資料をよーく見て、気付いたことをノートに書いてください。」

ほとんどの子は素直に鉛筆を走らせるが、先ほど手を挙げた男の子は書こうとしない。
机間巡視しながら彼女は書くことを促すが、ふてくされた様な態度である。
書かないのは彼だけではない。
普段からあまり集中力がなく個別に対応しないと容易に学習できない子も、当然ながら書く気配はない。

しばらくして、彼女は同じ資料を拡大コピーしたものを黒板に貼り付けた。
子どもたちの目を同じ一つのものに集中させたのだ。
「まだ書いていない人もいるかもしれませんが、こちらを見てください。」
すると、今度は全員が黒板の方へ目をやる。

「何か気付いた?」と笑顔で問いかけるやいなや、先ほど何も書かなかった子たちを含め多くの子が挙手をする。
むしろ、ノートにしっかり書いていない子の方が積極的だ。
「だんだん下がってる!」
「〇〇年と比べたら、●●年は半分くらいになっている。」

この程度なら6年生でなくても分かることだが、そこから全てが始まるのだ。
「なんだ、こんなことでもいいのか!」と思ったかどうかは分からないが、安心して発言が続く。
彼女はその内容を簡潔に板書する。
一気に教室は活気がみなぎる。

しかし、中には挙手をするのではなくノートにどんどん書き続ける子も数人いた。
後ろからのぞいてみると、投票率が下がってきた訳等を自分なりに考えて書いていたのだ。

とにかく、この時点では全員が授業に参加していたのである。
この雰囲気なり状態は、一人一人が自分なりに何かを学んでいるように思えた。
(つづく)



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