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農繁休暇の歴史は古く、全国的な規模で実施されていて、小学校の農繁休暇は明治29年まで記録を遡ることが出来るという。
戦前も戦後も日本全国どこでも、農繁休暇があった。
地域性もあり、長野では養蚕休暇や白菜出荷の休みなどもあったという。
私が中3の昭和37年に、村に馬の代わり田畑を耕す耕運機が入ってきた。
農業の機械化の始まりである。
機械化の進展と共に農繁休暇の日数短縮や、年間二度あったのが一度だけになり、私が大学を卒業する頃に、農繁休暇は無くなっていた。
児童・生徒の労働力としての意義は消滅していた。
北海道では減反政策で農業を辞める、農業後継者が減っていく、炭鉱の閉山、少子化等により農繁休暇が無くなる事は必然的であったと言えよう。
やがて卒業した学校も廃校になった。
小学校と中学校が一つの校舎の中にあった。
小学校は教室三つで、二学年一緒の複式学級だった。
中学1.2年も一緒のクラスの複式学級だった。
昭和21.22年生まれの私の学年が、18人で一番多く、中3になったとき小1はたったの3人だった。
廃校に伴いスクールバスを運行して、村に小学校1つ・中学校1つになった。
地域から日中、子供の声が消えてしまった。
どんな小さな村や地域にも学校はあったのだが、文化の発信地としての学校が無くなることは、地域共同社会の崩壊を意味していた。
私の家族も直にこの村を去ることになる。
父は満州出兵の七年間で体を壊し肺結核や腎臓病を患っていた。
私が小学校4年から家に余り居なくて入退院を繰り返し、農業が満足に出来ない身体になっていた。
戦争の犠牲で小学校しか行かせて貰えなかった父は、私に大学へ進学する将来の選択を任せてくれた。
ふるさとを離れて50年近く経った。
私も農業後継者の道を捨てた一人であり、地域共同体の崩壊を後押しした一人でもある。しかし故郷の村は、今も健在である。
残された農家の方たちが離農する土地を買い、機械が入るよう大型の田んぼに整備されていた。
私の従兄もその一人で、大規模経営をしている有能なコメ農家である。
彼の作る北海道のブランド米を、千葉の梨(幸水)のお返しに戴き毎年食べている。
ななつ星・ほしの夢・ゆめピリカなど絶品の美味しさである。
昨年訪ねた母校は、体育館だけがまだ残っていた。
村の農業機械の共同置き場として、今も昔のままの建物だった。
懐かしさのあまり窓越しに覗いた体育館の中に、みんなで歌った校歌の額が寂しげに物言わぬ機械たちを見下ろしていた。
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