大学卒業まで住んでいた故郷は、豪雪地帯で一晩に1m 近くも積もることがあった。
小学校5年生の時、街の商店街から8km離れた村にバスが朝・昼・夕方と3往復した。
そのお陰で、道路が除雪された。それ以前は登校するにも道が無く、誰かの足跡を歩くことだった。雪が深いときは長靴が脱げて、中に雪が入るので大変だった。雪を落とさないと
靴下が濡れてしまう。たいていは長靴も毛糸の靴下も濡れていた。学校に着くと石炭ストーブの周りで靴下を干す子も多かった。ともあれ、長靴の中はいつも濡れていたことが多かった。
給食は無く弁当だったので、冷たくならないように弁当を置く棚があった。
昼になるとタクアンの匂いが教室に充満していた。
担任はやかんでお湯を沸かし、麦茶を弁当箱の蓋に入れてくれた。
学校の玄関脇にはスキーがたくさん並んでおり、殆んどの児童生徒がスキー通学だった。
危険な道より安全で近道も出来たからだ。
道路はバスや車を通すため除雪車がほぼ毎日出動していた。しかし、道路の両脇が除雪された雪で3m以上もの高い壁になり、車道を通るのは極めて危険だった。車は道幅いっぱいに通るし、脇に避けても轢かれるギリギリの幅しかないからだ。
暴風や大雪になると、片道1時間以上もかけて通学する地区もあったので授業が打ち切られ下校になった。1m先が見えないこともあり、集団で下校することは年に数回あった。
二月は特に寒く「凍(しば)れる」という言葉で表現していた。学校の廊下は、真ん中が「凍れ」のため盛り上がっていた。地中の水分が凍って土台を持ち上げていたと思う。
教室の床は板張り一枚なので、穴から冷たい「すきま風」も入ってきた。
冬は足の5本指がしもやけ症状になり、かゆみや痛み膿んだりして大変だった。
東京に来た年から寒くも無いのに、その季節になると両足の指が赤くなりかゆみを感じた。
数年その症状が続いたが、身体か覚えていたのか単に血のめぐりが悪かったのか・・・。
「凍(しば)れる」は北海道や東北地方の方言で、「凍り付くような寒さ」の表現だが東京に勤めた時は殆んど理解されてなかった。英語の「shiver=寒さ・恐怖で震える」「shivery=寒気がする」から出来た云う説も聞いたことがある。
「少年よ大志を抱け」のクラーク博士が頻繁につぶやいていて広まったのかも知れない。
(つづく)
<スキー通学だった「デラシネ」>