新年早々、自分の不勉強を反省することになった。
皆さんは、「そんなことはとっくに知っている」と思うかもしれないのだが、お付き合い願おう。
去年、世界情勢がとんでもないことになってしまったのは言うまでもない。
まさかそこまでは、と思いながらも「核戦争の恐怖」が、脳裏をよぎった人も少なくはないのではなかろうか?
せっかく一昨年の1月に「核兵器禁止条約」が発効したにもかかわらず、原発を軍事目標にしたり、核兵器の使用をほのめかしたりを、ロシアのプーチン大統領はやってのけた。
そして、それにいそいそと乗っかり、日本で「核共有だ」「核武装だ」とふざけた発言を繰り返す輩まで跋扈する始末だった。
(お調子者の一人は、あの世に逝ったけれど)
前置きはさておき、年末にある若者と話をすることになった。
テーマは、長崎。
年明けに仲間と共に長崎を訪問するのだという。
もちろん原爆や平和のことを、自分たちで話し合い学習を深めていくヒントが欲しいということだった。
そこで「長崎の平和祈念像は、実は東京にもあるよ」と言ったのだが。
これが、自分の半可通ぶりを示すことになるとは、予想すらしなかった。
さて、年が明けて元旦。
よんどころない事情で、いつもと違う正月を迎えたのだが、恒例となっている「深大寺への初詣」に出かけた。
これまで深大寺へバスで向かうことはほとんどなかったのだが、ぼんやりと車窓を眺めていて「おや!」と目に留まったのが、あの長崎の平和記念像のレプリカだった。
どうやら公園の一角に建てられているらしい。
帰宅して、あそこはどこだろう?と調べてみた。
すると、自分が知っていた平和祈念像のほかに、東京には二カ所設置されていたのである。
そこで、まず車窓から見かけた公園に行ってみた。
その公園とは「三鷹市立仙川平和公園」という。
現地にいってみると、たしかに北村西望作の平和祈念像のレプリカが鎮座していた。
それだけではない。
像の背後には、1945年5月25日の空襲で中が焼けてしまったが、外側だけで生き残ったプラタナスと、ヨハン・ガルトゥング氏(注)から寄贈された記念樹、さらには、「アンネ・フランクのバラ」までもが植えられていた。
祈念像は、平成元年(1989年)11月「みたか百周年記念事業」の一環として建立されたということだ。
三鷹市は、1982年には「非核都市宣言」を市議会で採択している。
さらに、おととし2020年に、それまで「仙川公園」だった名称を市民の公募により「仙川平和公園」と改められたとのことだ。
さて、一日置いて、もう一カ所自分が知らなかった祈念像の場所を訪ねてみた。
それは、北区王子の「北とぴあ」の正面玄関の横にあった。
建立されたのは、平成2年(1990年)の9月とのこと。
その4年前の1986年に北区も「平和都市宣言」を行っている。
また、北区には、戦前から1953年に三鷹市に転居するまで、祈念像の制作者である北村西望氏が住んでおり、1981年に北区の名誉市民となっている。
こうした縁で平和祈念像が建立されたということなのである。
30年以上の時を経たとはいえ、日本が「平和国家」の看板を投げ捨てようとする時代が来るとは、祈念像建立に関わった当時の人々の想像すらしなかったことではないだろうか?
平和が脅かされている時代にあって、過去の人々の平和への思いを振り返ることも、大事ではないかと思うのだが、いかがだろうか。
注:ヨハン・ガルトゥング氏は、ノルウェー生まれの社会学者・数学者。20代の時に、「良心的兵役拒否者」として、1年の単純労働に従事。延長を拒否したため、労働刑務所に6か月間収監された。平和を「戦争のない状態」ととらえる「消極的平和」に対し、貧困・抑圧・差別などの構造的暴力がない状態を「積極的平和」とすることを提起した。
2023/1/9
-K.H-
皆さんは、「そんなことはとっくに知っている」と思うかもしれないのだが、お付き合い願おう。
去年、世界情勢がとんでもないことになってしまったのは言うまでもない。
まさかそこまでは、と思いながらも「核戦争の恐怖」が、脳裏をよぎった人も少なくはないのではなかろうか?
せっかく一昨年の1月に「核兵器禁止条約」が発効したにもかかわらず、原発を軍事目標にしたり、核兵器の使用をほのめかしたりを、ロシアのプーチン大統領はやってのけた。
そして、それにいそいそと乗っかり、日本で「核共有だ」「核武装だ」とふざけた発言を繰り返す輩まで跋扈する始末だった。
(お調子者の一人は、あの世に逝ったけれど)
前置きはさておき、年末にある若者と話をすることになった。
テーマは、長崎。
年明けに仲間と共に長崎を訪問するのだという。
もちろん原爆や平和のことを、自分たちで話し合い学習を深めていくヒントが欲しいということだった。
そこで「長崎の平和祈念像は、実は東京にもあるよ」と言ったのだが。
これが、自分の半可通ぶりを示すことになるとは、予想すらしなかった。
さて、年が明けて元旦。
よんどころない事情で、いつもと違う正月を迎えたのだが、恒例となっている「深大寺への初詣」に出かけた。
これまで深大寺へバスで向かうことはほとんどなかったのだが、ぼんやりと車窓を眺めていて「おや!」と目に留まったのが、あの長崎の平和記念像のレプリカだった。
どうやら公園の一角に建てられているらしい。
帰宅して、あそこはどこだろう?と調べてみた。
すると、自分が知っていた平和祈念像のほかに、東京には二カ所設置されていたのである。
そこで、まず車窓から見かけた公園に行ってみた。
その公園とは「三鷹市立仙川平和公園」という。
現地にいってみると、たしかに北村西望作の平和祈念像のレプリカが鎮座していた。
それだけではない。
像の背後には、1945年5月25日の空襲で中が焼けてしまったが、外側だけで生き残ったプラタナスと、ヨハン・ガルトゥング氏(注)から寄贈された記念樹、さらには、「アンネ・フランクのバラ」までもが植えられていた。
祈念像は、平成元年(1989年)11月「みたか百周年記念事業」の一環として建立されたということだ。
三鷹市は、1982年には「非核都市宣言」を市議会で採択している。
さらに、おととし2020年に、それまで「仙川公園」だった名称を市民の公募により「仙川平和公園」と改められたとのことだ。
さて、一日置いて、もう一カ所自分が知らなかった祈念像の場所を訪ねてみた。
それは、北区王子の「北とぴあ」の正面玄関の横にあった。
建立されたのは、平成2年(1990年)の9月とのこと。
その4年前の1986年に北区も「平和都市宣言」を行っている。
また、北区には、戦前から1953年に三鷹市に転居するまで、祈念像の制作者である北村西望氏が住んでおり、1981年に北区の名誉市民となっている。
こうした縁で平和祈念像が建立されたということなのである。
30年以上の時を経たとはいえ、日本が「平和国家」の看板を投げ捨てようとする時代が来るとは、祈念像建立に関わった当時の人々の想像すらしなかったことではないだろうか?
平和が脅かされている時代にあって、過去の人々の平和への思いを振り返ることも、大事ではないかと思うのだが、いかがだろうか。
注:ヨハン・ガルトゥング氏は、ノルウェー生まれの社会学者・数学者。20代の時に、「良心的兵役拒否者」として、1年の単純労働に従事。延長を拒否したため、労働刑務所に6か月間収監された。平和を「戦争のない状態」ととらえる「消極的平和」に対し、貧困・抑圧・差別などの構造的暴力がない状態を「積極的平和」とすることを提起した。
2023/1/9
-K.H-