講談社発行の画文集「炭鉱に生きる」は地の底の人生記録と副題にあるように、坑夫たちの生活は過酷な労働と搾取・収奪され奴隷そのものでもあった。
納屋制度といって、納屋頭領が会社から請け負って、炭坑夫たちの雇い入れから、労務管理までの一切を取り仕切り、会社から歩合を、炭坑夫からは賃金をピンはねする仕組みになっていたのである。
また、賃金も現金で支給されずに、炭鉱内や出入りの業者しか通用しない「切符」といった私製紙幣を支給して現金を持たせぬようにして事実上拘束していた。
これを現金にするには、三割以上の利息をとって暴利を貪る者もいたという。
しかし、作兵衛が働いていた麻生系の「切符」は信用が無く、現金に代えられなかったという。
現金のない坑夫たちは泣く泣く「切符」の通用する炭鉱直営の売り場か指定商店から買い物をするのだが、これが市価よりもかなり高いのだ。「持てる者は座して蓄え、持たざる者は汗してむなしの素寒貧」で、坑夫は借金と高利に追いまくられていた。
あまりの酷さに逃げ出すものがいれば、捕まえて見せしめに凄惨なリンチを公開もしていた。
第二次世界大戦中は、国民精神総動員・質実剛健出炭報国等のもと、五人も十人分も働けと石炭を掘らされたという。
さながら生き地獄のようで、明治時代の監獄部屋と化しており逃げ出したくても逃げられず、自殺者も多かったという。
大手の炭鉱では、朝鮮人や中国人・欧米からの捕虜も強制労働させられていた。
かなりの虐待もあったといわれる。
北海道では18の炭鉱に慰安所があったという。
「労務慰安婦」とは、朝鮮人労働者の強制連行が始まった1934年(昭和14)以降、日本国内から各地の鉱山の慰安所に送られた女性で、朝鮮人料理経営者らが日本企業の要請で集められたという。
騙されて日本に連れてこられ、20歳以下が六割を占めていたという。
これは、札幌市教育委員会の西田秀子氏が8年がかりで調査し、2003年9月2日の北海道新聞に掲載されたものである。
山本作兵衛の本をじっくり読んでいくうちに、近代産業の発展を支えたのは、貧しき搾取されるだけの名も無き炭鉱労働者たちであったことを知ることが出来る。
しかし、武士の時代は終わったものの、明治から敗戦までの時代は、庶民にとって暮らしやすい幸せな時代だったのだろうか。
いつの時代も、庶民階級は「生かさず殺さず」と搾取され続け苦しめられている。
それは今も変わらない。
原発事故以来二年半にもなるが、政府や東電が原発避難民にしていること、放射能を浴びながら原発事故処理作業にあたっている多くの下請け労働者達は、作兵衛が炭鉱夫として働いていた時代と何ら変わっていない。
作兵衛は云う。
「どれほど無産運動に入りたかったかしれません。」と。
ひとたび戦争になったら、産業戦士・石炭戦士とおだてるが、実際は囚人以下、奴隷とどれだけの違いがあったのかと。
変わったのは表面だけ、底の方は少しも変わっていない。日本の炭鉱はそのまま日本という国の縮図と云い、矛盾した社会構造の本質を批判している。
平日のせいか、東京タワーはひと気が殆んど無かった。
閑散とした土産店には、高校の修学旅行で買ったタワーの模型も売っていた。
東京スカイツリーに押しのけられ、昭和の歴史的遺物のような東京タワーだが、レトロ感も感じ見る価値も高い。
職場の若い教師に勧めたら、東京タワーに行った事がないという。
東京タワーからの眺めは、新緑が優しく目に飛び込み、お寺や神社・学校・大使館・
庭園など歴史を語る風景がとても美しかった。
しかし何よりも気高く美しかったのは、ガラス越しに見た一人の女性だった。
外の展望台の周囲を地上と同じように動き、キビキビとした姿でガラスを拭いていた。
身振りで写真を撮る許可をもらい、夢中でシャッターを切った。その瞬間、例えようもないほどの嬉しさと達成感が私を包んだ。
彼女の姿は輝いていた。
世界で一番素晴らしい写真を、たった今、私は撮ることが出来たのだと・・・。
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納屋制度といって、納屋頭領が会社から請け負って、炭坑夫たちの雇い入れから、労務管理までの一切を取り仕切り、会社から歩合を、炭坑夫からは賃金をピンはねする仕組みになっていたのである。
また、賃金も現金で支給されずに、炭鉱内や出入りの業者しか通用しない「切符」といった私製紙幣を支給して現金を持たせぬようにして事実上拘束していた。
これを現金にするには、三割以上の利息をとって暴利を貪る者もいたという。
しかし、作兵衛が働いていた麻生系の「切符」は信用が無く、現金に代えられなかったという。
現金のない坑夫たちは泣く泣く「切符」の通用する炭鉱直営の売り場か指定商店から買い物をするのだが、これが市価よりもかなり高いのだ。「持てる者は座して蓄え、持たざる者は汗してむなしの素寒貧」で、坑夫は借金と高利に追いまくられていた。
あまりの酷さに逃げ出すものがいれば、捕まえて見せしめに凄惨なリンチを公開もしていた。
第二次世界大戦中は、国民精神総動員・質実剛健出炭報国等のもと、五人も十人分も働けと石炭を掘らされたという。
さながら生き地獄のようで、明治時代の監獄部屋と化しており逃げ出したくても逃げられず、自殺者も多かったという。
大手の炭鉱では、朝鮮人や中国人・欧米からの捕虜も強制労働させられていた。
かなりの虐待もあったといわれる。
北海道では18の炭鉱に慰安所があったという。
「労務慰安婦」とは、朝鮮人労働者の強制連行が始まった1934年(昭和14)以降、日本国内から各地の鉱山の慰安所に送られた女性で、朝鮮人料理経営者らが日本企業の要請で集められたという。
騙されて日本に連れてこられ、20歳以下が六割を占めていたという。
これは、札幌市教育委員会の西田秀子氏が8年がかりで調査し、2003年9月2日の北海道新聞に掲載されたものである。
山本作兵衛の本をじっくり読んでいくうちに、近代産業の発展を支えたのは、貧しき搾取されるだけの名も無き炭鉱労働者たちであったことを知ることが出来る。
しかし、武士の時代は終わったものの、明治から敗戦までの時代は、庶民にとって暮らしやすい幸せな時代だったのだろうか。
いつの時代も、庶民階級は「生かさず殺さず」と搾取され続け苦しめられている。
それは今も変わらない。
原発事故以来二年半にもなるが、政府や東電が原発避難民にしていること、放射能を浴びながら原発事故処理作業にあたっている多くの下請け労働者達は、作兵衛が炭鉱夫として働いていた時代と何ら変わっていない。
作兵衛は云う。
「どれほど無産運動に入りたかったかしれません。」と。
ひとたび戦争になったら、産業戦士・石炭戦士とおだてるが、実際は囚人以下、奴隷とどれだけの違いがあったのかと。
変わったのは表面だけ、底の方は少しも変わっていない。日本の炭鉱はそのまま日本という国の縮図と云い、矛盾した社会構造の本質を批判している。
平日のせいか、東京タワーはひと気が殆んど無かった。
閑散とした土産店には、高校の修学旅行で買ったタワーの模型も売っていた。
東京スカイツリーに押しのけられ、昭和の歴史的遺物のような東京タワーだが、レトロ感も感じ見る価値も高い。
職場の若い教師に勧めたら、東京タワーに行った事がないという。
東京タワーからの眺めは、新緑が優しく目に飛び込み、お寺や神社・学校・大使館・
庭園など歴史を語る風景がとても美しかった。
しかし何よりも気高く美しかったのは、ガラス越しに見た一人の女性だった。
外の展望台の周囲を地上と同じように動き、キビキビとした姿でガラスを拭いていた。
身振りで写真を撮る許可をもらい、夢中でシャッターを切った。その瞬間、例えようもないほどの嬉しさと達成感が私を包んだ。
彼女の姿は輝いていた。
世界で一番素晴らしい写真を、たった今、私は撮ることが出来たのだと・・・。
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