2024年から新しい一万円札の肖像に描かれることになった渋沢栄一の誕生の地である埼玉県深谷市を訪問して来ました。
埼玉県生まれの最も偉大な方でありますが、これまであまり馴染みがない方が多かったか知れてません。(個人の感想です)。
旧渋沢邸「中の家(なかんち)」の正門
堂々とした門や塀の構えから豪農だった雰囲気が感じられます。渋沢栄一が生まれた当時には農業▪養蚕▪藍玉染料製造など手広く事業を行なっていたそうです。
渋沢栄一は天保11年(1840年)にこの地で生まれました。
青淵翁とは渋沢栄一の雅号(がごう)本名以外につける風雅な名前のこと。
入口の門から直ぐの左手に等身大の渋沢栄一の銅像、24歳の時出家からの姿なのでしょうか▪▪▪
台座の銘板に「若き日の栄一 Eiichi in Paris 1867」とありますから、28歳のとき徳川昭武(15代将軍慶喜の弟)随員としてフランスのパリに行った時の姿なのだそうですが、マルセイユで撮った写真姿から造られています。
南向きに建つ旧渋沢邸「中の家」の母屋。
中の家を妹夫婦が明治28年に建てました。屋根に「煙出し」と呼ばれる高窓を付けた養蚕特有の母屋です。
どの建物内には入れませんが、外からの見学です、敷地を無料で見学できます。
母屋の室内。80歳代の渋沢栄一さんをモデルにしたアンドロイドが迎えてくれた。
母屋の家屋。「NHK大河ドラマ青天を衝け」吉沢亮さんイケメン
お庭側からの母屋。
屋敷の東側には第一土蔵と東門を挟んでその右に第二白壁。土蔵
土蔵「第2」
北面の屋敷林の一角に立派な石碑が三基、左から栄一の母 えい の石碑。隣接して 父 渋沢市郎左衛門の碑、右隅は平九郎の石碑。
「渋沢平九郎追懐碑」渋沢栄一の見立養子で幕末の飯能戦争で官軍との戦い敗れ、21歳で自刀した平九郎を偲び祀った石碑。
主屋の内部は見学出来ませんでしたが、思い出に残る渋沢栄一の生家でした。