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平和を発信する施設 「桶川飛行学校平和祈念館」

2020年08月28日 | 日記

桶川市にあった「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場」の跡地に、平和を発信する「桶川飛行学校平和祈念館」が完成した

令和2年8月4日に一般公開が始まり、行って来ました。

開館時間 午前9時~午後4時30分

休館日  月曜日

入館料  無料

駐車場  無料

「パンフレットより」

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場は1937年に開設され、少年飛行兵ら1500人以上が学んだ。

戦況の悪化で大戦末期の45年2月に閉校後は、特攻要員の訓練場となった。

戦後は引き揚げ者らの住居となり、2007年まで使われた。

兵舎棟

特攻隊員の遺族や市民でつくるNPO法人「旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会」が保存を求めて

市に約1万4000人の署名を提出。桶川市が2018年から整備工事を行いました。

覚悟の学びや

入り口でチェックシート記入、検温、手の消毒をし順番に兵舎内に進みます。

パンフレットによると

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場は、昭和10年に熊谷市に開校した陸軍飛行学校の分校として

昭和12年に設置されました。

少年兵はここで寝食をともにしながら、陸軍航空兵になるための

飛行機の操縦教育を受け、その後戦地に向かいました。

少年兵、覚悟の学びや

この写真の場所は、現在の本田エアーポートでしょう・・・

特攻はモールス信号音を送信状態のままにして行う、電文受信後に流れる「ツーーーーー」という長音が最後

信号音の消えたときが敵艦に突入したか撃墜されたとき・・・

太平洋戦争末期の昭和20年4月には12人の特攻隊員が鹿児島県知覧にここから送り出されました。

伍井芳夫さん(大尉、32歳で戦死後に中佐)は分教場で教官を務め」

1945年4月、特攻隊長として沖縄の海に散った。 

「オ前達ノ成長ヲ見守ッテオリマス」

靖国神社にある、家族宛ての遺書の写しも展示されている。

平和のありがたさを今更ながら実感し 

こういう戦争の事を後世に伝える施設というのは今後益々重要になってくるのではないかと思います。


間宮林蔵記念館 生家 墓所

2020年08月09日 | 日記

樺太探検で間宮海峡を発見した人、間宮林蔵の生家 記念館 墓所を訪問。

場所は茨城県つくばみらい市上平柳64 

入場料 大人100円、私は高齢者割引で50円、有り難いことです

展示資料は撮影禁止。

測量用の鎖綱を手にした探索姿。

銅像の前が間宮林蔵の生家 江戸時代の安政年間の建築。

中農家規模の住居らしい?

間宮林蔵生家の内部、部屋は立入禁止です。

今では珍しい土釡

突き当たりに間宮林蔵のお墓のある専称寺があります。

専称寺山門

観世音菩薩像 鐘楼。

専称寺本堂

山門を入った左側に間宮林蔵のお墓があります。記念日碑の裏側にお墓が、

説明版抜粋です 【 間宮林蔵は安永九年(1780)常陸国筑波郡上平柳村に生まれ、天保十五年(1844)波乱に満ちた六十五歳の生涯を終え、ここに眠っています。間宮林蔵は当専称寺の住職伯永和尚に学び、その才能を発揮し小貝川の堰止め工事で認められたといわれ、江戸に出て行きました 】

左側 間宮林蔵のお墓、右側 両親のお墓。

間宮林蔵は自分でお墓を作って蝦夷へ行きました。二度と戻れないと思ったのでしょうか。

説明版の続き 【 このお墓は、文化四年(1807)決死の覚悟で樺太探検に出発するのあたり、林蔵自ら建設した生前のお墓です。】

間宮林蔵は東京都江東区の深川(本所ともいわれています)あたりで没したそうです。

東京メトロ有楽町線 清澄白河駅から徒歩10分くらいの所に間宮林蔵のお墓があります。

間宮林蔵の墓は東京都江東区平野にあります。

都会の片隅でひそりと休んでいます。

つくばみらい市にあるお墓よりも立派ですね、つくばみらい市にあるお墓は蝦夷地の探索に行くときに作った、決意のお墓ですが、東京江東区のこちらは、功成り名を成した後のにできたお墓です。