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沖縄の旅 「旧海軍司令部壕」

2023年04月23日 | 日記

旧海軍司令部壕に行ってきました。

豊見城市「とみぐすく」市にある旧海軍司令部壕は、沖縄戦で大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕です

海軍壕公園ビジターセンター

中は資料館になっており、地下に司令部壕があります。

参観料 大人600円資料館、司令部壕を見て見ます。

今でも多くの遺品が発掘される。

資料館入口

資料館入口には大田司令官の写真 「沖縄県民はこのように戦いました」の電文、大田司令官の少将旗が展示されている。

電文の部分を書き写します。

昭和二十年六月六日二十時十六分発

 次の電文を海軍次官にお知らせくださるよう取り計らってください。

沖縄県民の事情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県はすでに通信する力はなく、三十二軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力が力がないと認められますので、私は県知事に頼まれたわけではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。沖縄に敵の攻撃が始まって以来、陸海軍とも防衛の戦闘に専念し、県民に関してはほとんどかえりみる余裕もありませんでした、しかし私のしてる範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかリだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、風雨にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が生き別れになるのを覚悟で軍に預ける親もいます。看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助け共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において、作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定されたとき、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も六月一杯を支えるだけついうことです。

沖縄県民はこのように戦いました。

県民に対して後世特別のご配慮をしてくださいますように。

 

資料館内

こんなん道具「鉄砲と竹槍」を持って戦うというのは、とっても想像できない。

旧海軍司令部壕見取り図

貴重な資料を見た後はいよいよ防空壕へ。

入口から階段へ 沢山の千羽鶴で飾られていました。

壕入口階段。結構深い所まで階段が続いています105段(30m)の階段を降りていきます。

この防空壕は、補修されてた部分もありますが、ほぼ当時のままだそうです。

信号室

長い階段を降りると、かまぼこ型に掘りぬかれた通路がのび、信号室、作戦室、幕僚室、司令官室、医療室、発電室、下士官室、といった小部屋につながっている。

壕内見取り図及び順路図。通路が狭いため、順路が決まっています。

薄暗い狭い通路!無数に張り巡らされ、迷路のようになっています。

幕僚室

 

発電室

医療室 この部屋を中心に多くの負傷兵がいたと言う事です。

通路も部屋も、とても狭いです

突き当たりは地上に通じる出口です。ほとんどの兵士たちは、武器らしき武器もなくこの出口から出撃、大半は二度と帰ってくることはなかったそうです。

司令官室

 

大田司令官が自決した部屋も、静かに残っている。何も無かったかのように。

司令官室・作戦室に近いこの部屋は幕僚が手榴弾で自決した。

作戦会議の様子。

忘れられない二十世紀の爪痕ですねー

意外と外国人の方が多くて、当時の日本人が戦っていた国の人たちがこの場所にいるのはなんか変な感覚。

海軍戦死者慰霊之塔

平和な景色、これがいかにも大切なものか、ここ沖縄で恐るべき戦争が行われたこと、私たちは決して忘れてはならない。

戦争は どちらかが勝手も負けても、人と人の殺し合い・・・

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