上田城の実質上の 上田城本丸 です、この中にはかって若い女性などの向上のためのカルチャ-センタ-があったそうですが、現在は判りません、
なおこの付近も明治維新の下地になった、第二次上田合戦の時に、小諸城から出陣した、徳川秀忠軍と戦場になったそうです、それにしても、何故 徳川軍は攻めるのに手こずたのでしょうかね? 小諸駅の海抜は663m、滋野563m、田中512m、上田445、7mと下り坂が続き体力の消耗は少ないと思われるのに、やはり秀忠は軍人に向かない、優しい性格で在ったのかな~ やはり明治維新の立役者は真田一族と秀忠かな~
親父の家康は関ヶ原の合戦では敵の盾になる民家を300戸 焼き払ったのにな~「関ヶ原の学芸員による」なお島津軍の敵中突破も可能にしたのかな~
家康が小早川の陣地に向って大筒を撃って催促したなどありえません、全て物書きの作家が本が売れる様にの創作です、さて家康の前線陣地から松尾山まで何キロも在ります
1600年4月29日に漂着した、オランダ船ソ-フデ号(ウイリヤム アダムス 三浦按針)から徳川家康が没収した、艦載砲を上杉討伐、関ヶ原合戦に使用したそうですが、当時の大砲は、鋳造で出来ていて、研磨する機械は発明されていませんので、ただ流し込んだだけの、ただの金属の長い筒でした、
豊臣秀頼に漂着の第一報が奉行より入ったのに、家康にまかしぱりして結局は豊臣家の滅亡につながってしまたのかなです、