目黒に元海軍研究所の防衛研究所が在ります、帝国海軍の水兵で米軍に撃沈され何時間も海に漂い、生還した、先輩が教えてくれましたが、現在は隣が公園になっていますので、判りませんが、山の中腹に在った小さな側溝の蓋を開けると玉川上水が、人知れずチョロチョロと流れて目黒川に注いでいました、
なお高遠藩から会津藩の領主になった、保科正之が、落語 目黒の秋刀魚で有名な、目黒で腹違いの、徳川幕府3代将軍の家光と、このあたりで、めぐり会った場所だそうです、
なお現在の防衛研究所の履歴は、徳川幕府の砲薬製造所→大日本帝国海軍の電気関係などの研究所(現在 防衛省 幹部学校が建っていますところには、大きな丸い池があり、戦艦 大和などの模型実験をしたそうです)→英連邦 豪州軍エビスキャンプ、先輩いわく、船舶の実験用の水槽が在り、兵隊のワルの監獄として使用し、そばを歩くと下から、ワルが覗いていたそうです、敗戦者が勝利者を上からでした、
なお徳川幕府の町奉行が管理する御府内、文献などには玉川上水の給水地域が載っていませんが、徳川幕府の防衛上の重要施設でしたので、上水はここにも来ていたと思います、
なお弾薬庫としても使われていたようで、地面を掘ると強固な赤レンガで削岩機のドリルが入りませんでした(現代の赤レンガと強度が違い鉄の様に硬かったです)
追記 1914年(大正3年)に赤レンガで作られた東京駅の模型文治を改めて見ました、いかにも土を固めた色合いです、それに比べて、鉄分が多量に含まれていたようで、手に持っと、現代の赤レンガと比べて、ズシリと重かった様に記録しています、
再追記 大変失礼しました 防衛研究所は平成28年8月に市ケ谷へ移転していました、元は3軍が入っていて、海上自衛隊 関係の艦船の模型で池、水槽を使い実験をしていたようです、過去に市ケ谷基地に友人が技官として勤務していましたので、三島事件があった、庁舎などを見学させて頂いた事が在りますが、池などを作る敷地はないようですので、どうしているのでしょうかね~ まさかコンピュ-タ- グラフィックで実験ですかね、
陸海空3軍で世界最強の武器を開発して頂き、植民地を脱し自国は自国で守り、兄弟喧嘩の、よその国の紛争に巻き込まれる海外派兵は絶対しないで、北方
領土を返して頂きたいですね、
再々追記 失礼しました、かってこの地は町奉行の管理地で、大名屋敷が多数あったために、玉川上水を引き込んだようです、東京は山だらけですので、恵比寿付近は高台になっています、自然と目黒川に流れ込むように成っています、
かって大日本帝国海軍の電気関係の研究所があった所は、現在は目黒区立の児童公園になっています、
戦艦 三笠と同じ、イギリスのヴィツカ-ス社で建造された、太平洋戦争で唯一の外国製であった日本の戦艦の、戦艦 金剛のヤ-ロ-式ボイラ-が稼働していましたが、現在は大和ミュ-ジアムで、稼働しているようです、ネットで見ると、燃料は石炭に戻っているようです、かっては、B重油を環境問題で軽油に、点火時は都市ガスでした、
なお過去に将校の方から、お聞きしましたが、石炭ボイラ-の時代は魚雷の一発位受けても、石炭をどんどんくれべは、エンジン ストップに至らなかったそうです(余談ですが過去に銅製の風呂釜をヘマをして空焚きしてしまい、水漏れしてしまいましたが、脂分の多い松材などを、どんどんくべましたら、ピタリと水漏れが止まりました、なお小生はボイラ-免許皆伝です)
なお戦艦 金剛は日本のイ-ジス艦 第一号の こんごう に艦名が受け継がれています、
なお、タイタニック、戦艦 武蔵などの沈没の原因は、ボイラ-の水上爆発でなく、鉄板を繋ぎ合わせるリベットなどの技術が未だ確立されていなかったための様です、
再々再々追記 玉川上水が在りましたのは、徳川幕府が火薬製造所のために、水車を動力源とするためのようです、なお日本初の西洋式火薬工場を造ったのは、日本の近代化の父と言われています、小栗上野介だそうです、
余談ですが、若き日に、アメリカ合衆国に接収されています、横須賀海軍基地に、建国記念日に入門させて頂いた事があります、日本では日本の近代化は、明治新政府の役人の活躍ばかりですが、米国では横須賀海軍基地を造った、小栗上野介に敬意を表して、司令官室には、小栗上野介の写真が飾られているそうです、
それにしても、問答無用で、小栗上野介を、殺してしまったのは、明治新政府の最大の失態ですね、
追記 失礼しました、ネットによりますと、小栗上野介の写真は現在は、基地司令部の玄関ホ-ルに掲示されているようです、当時、司令官の御夫婦の方は温厚な顔立ちで品のある方でした、