なくもの哲学と歴史ブログ

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ヘーゲルの「弁証法」

2024-12-04 21:34:00 | 西洋哲学

【弁証法】

 一般的に、弁証法は、対立している意見を、より優れた意見によって結論に導く時に使われます。ヘーゲルは、世界の変化や発展の過程を本質的に理解するために、弁証法という「方法」を用いました。弁証法は「対話的」「問答的」な思考法とされています。そのため、相手「対象」がいることが前提です。

 すべてのものは、自分のうちに「矛盾」を含んでいるとされています。ヘーゲルは、その矛盾が発展の「条件」になるとしました。「対立項」の「矛盾」を「明確化」させ、それを「解消」することで、より高い段階へ、発展させることが出来ると考えたからです。その際、どちらも否定せずに統合しなくてはいけません。なぜなら、単なる一方的な批判では、発展しないからです。弁証法は、一つの大きな運動だとされています。ヘーゲルは、歴史も弁証法的に発展してきたと考えました。


【三段階】

 弁証法は「①定立」「②反定立」「③統合」と三段階に発展します。その最初の「肯定的」な判断の段階を言語で表したものが定立です。定立は「テーゼ」「提題」「命題」「題目」などともいいます。その定立を否定する段階が反定立です。反定立は「アンチテーゼ」や「反対命題」などとも言います。その際、相手の意見を肯定しつつ、否定しなくてはいけません。なぜなら、一方的な意見では、ヘーゲルのいうアンチテーゼにならないからです。ただし、一般的にアンチテーゼは、ただの反対意見という意味でよく使われています。ヘーゲルは、アンチテーゼを、相手を否定するためではなく、より良い意見に導くための一つの過程だとしました。定立と反定立という二つの意見を結合した結果が「統合」です。統合は「ジテーゼ」「統合命題」「合」などとも言います。


【アウフヘーベン】

 ヘーゲルは、弁証法という方法によって、対立を通じて、意見を一段階高く持ち上げ、より高い次元で統一することを「アウフヘーベン」と名付けました。日本語で、アウフヘーベンは、止揚「しよう」や揚棄「ようき」などとも言います。止揚「しよう」や揚棄「ようき」と言うのは「揚」という字には「あげる、あがる」という意味があるからです。

 アウフヘーベンには①「捨てる」②「保持する」③「高く持ち上げる」という三つの意味があります。「捨てる」と「保持する」という、お互いに相反する意味を持つのは、思考が発展する段階的な「過程」を表現した言葉だからです。相反するものが必要なのは、悪い部分を省き、二つの意見のそれぞれの良い部分取り入れて、より良いものにするためだとされています。


ライプニッツの「モナド」

2024-12-04 19:40:00 | 西洋哲学

【モナド】

 ライプニッツは、この宇宙を説明するため、原子論を批判して「モナド」という概念を使いました。モナド「単子」とは、それ以上分割出来ない不可分な「形而上学的」な点だとされています。形而上とは、具体的な形のない非物質的なもののことです。モナドは、単一な個体的実体とされるので、部分というものがありません。実体とは、それが存在するために他のものを必要としないもののことです。ライプニッツは、モナドこそが真の存在だとしました。モナドは、点なので、延長「拡がり」というものがないとされています。

 ライプニッツは、この宇宙は、モナドの総和だとしました。モナドは、一つ一つ質的に異なります。そのため、世界にまったく同じものは存在しません。モナド同士は、相互に「作用」することがないとされています。ライプニッツは、それをモナドは「窓を持たない」と表現しました。窓とは、そこから物が出たり入ったりするという意味です。


【モナドの二つの属性】

 

 モナドには①「欲求」と②「表象」という二つの属性があるとされています。欲求とは、ある状態から別の状態へ変化しようとすることです。モナドは、ただ自分特有の「性質」「本質」「法則」に従って、自発的に働くとされています。ライプニッツは、モナド間相互の働きは、予定調和的だとしました。予定調和とは、神があらかじめ定めていた計画によって、世界の調和が実現するという意味です。ライプニッツは、この現実世界を神が最善の世界として選択したものだとしました。それを世界最善説と言います。

 また、ライプニッツは、モナドが出来事を表象するものだとしました。表象とは、外界にある対象を心の中で表現したイメージのことです。ライプニッツは、この世界は、あらゆるモナド「諸表象」の不断の連続だとしました。


【モナドの鏡】

 ライプニッツは、モナドを一つ一つ相互に独立した小宇宙だとしました。各モナドは、現実世界全体「すべてのモナド」の状態を反映しているとされています。ライプニッツは、それを「モナドの鏡」と表現しました。モナドは、止まることがない一つの内的な力の統一体だとされています。それは、外的な力によって「規定」や「破壊」されることがありません。

 ライプニッツは、この宇宙は、生命的な働きに満ちており、静止はどこにもないとしました。新しい命の誕生は、生命の展開で、死は、生命の収縮にすぎないと考えたからです。展開とは、生命がこの世に現勢化することで、収縮は、潜勢化することだとされています。


プラトンの「デミウルゴス」

2024-12-03 21:30:00 | 西洋哲学

【デミウルゴス】


 プラトンは、物質世界「感覚的な世界」の存在を説明するために「デミウルゴス」という神を使って、神話的にそれを表現しました。デミウルゴスとは、ギリシャ語で「公共のために働く者」という意味です。プラトンは、デミウルゴスが、この宇宙を作ったのだとしました。そのため「制作者」「工匠」などとも呼ばれています。

 デミウルゴスは、はじめに「世界霊魂」を作りました。プラトンは、人間の魂も、不滅で高級な世界霊魂と同じ本性を持っているとし、それが肉体という牢獄に閉じ込められているのだとしました。



【イデアと質料】

 プラトンは、デミウルゴスが「イデア」を模範とし「質料」という原材料を使って、宇宙を生成してるのだととしました。イデアとは、個々のものの原型「雛型」のことです。諸物は、そのイデアの影だとされています。ちなみに、イデアの概念は、経験からは導き出せません。

 プラトンは、イデアこそが、神が作った永遠に同一の真の実在だとしました。それに対して、質料は、物資的なものとされています。質料「ヒューレ」は、それ自体だけでは「無規定」「無形式」「無構造」「無機的」な形のない基体にすぎません。そうした質料に「形」や「構造」を与えているのが、イデアだとされています。プラトンは、質料の構成要素は「火」「土」「水」「空気」という四つの元素だとしました。それらを組み合わせるのがデミウルゴスだとされています。それぞれの物の違いは、元素の構成の比率にすぎません。


【宇宙】

 プラトンの宇宙論は、きわめて目的論的だとされています。なぜなら、プラトンの宇宙論では、デミウルゴスが、意図的に宇宙を出来るかぎり、自分に似せて創ろうとしてるからです。その宇宙のことを「ウラノス」や「コスモス」と言います。デミウルゴス自体は、変わることがありません。そのため「永遠なる同一者」などとも呼ばれています。

 また、デミウルゴスは「善なる者」ともされました。なぜなら、宇宙を展開させることは、善を実現させることでもあるからです。デミウルゴスが作った宇宙は、中心からどの方向にも距離が等しく、秩序と調和と美に満ちた球形だとされています。プラトンは、この宇宙は、始まりをもつが、有限で一つしかないとしました。また、それは自足的なものだとされています。なぜなら、何一つ外部へ出て行くこともなければ、入ってくることもないからです。

 プラトンは、宇宙は、有機体のようなものだともしています。その生産の仕方が、動物の妊娠期間のように周期的だからです。宇宙は、不断の循環運動を繰り返しており、老いることも、病気になることもないとされています。プラトンは、そうした宇宙を把握するには、人間の理性によらなければならないとしました。



ニーチェの「永劫回帰」

2024-03-19 12:21:00 | 西洋哲学

【永劫回帰】 

 ニーチェ哲学の中核であり、その大前提となる思想が永劫回帰でした。永劫回帰とは、全てのものが生成し、永遠の円環運動を営むことです。その全過程は、まったく同じ順序に従っています。ニーチェは、この世界には、始めと終わりがないとしました。世界は、何もないところから、突然生まれたわけではないとしています。原因もないのに、何が起こることはないからです。 また、この世界が生成し終えて、無という完成された状態にならないとしました。もし、そのような状態があるなら、それは、すでに達成されていたはずであり、また、そうなる理由や根拠もないからです。そのため、あるのは永遠の繰り返しだけだとしました。

 【時間と瞬間】 

 この世界は、無限回の反復のうちにあります。反復するのは、世界が、無際限に新しいものを創造することも出来ないからです。そのため、世界は、永遠に同じことを繰り返しているのだとしました。ニーチェは、それを目的を持たない、赤子の戯れに例えています。

 永遠回帰では、時間は直線的ではありません。あるのは、それぞれの瞬間の配置だけだからです。その配置は、各瞬間の相互の位置関係によって決まっています。我々が体験しているのは、ある特定の瞬間だけです。それぞれの瞬間は、永劫回帰全体の特定の位置にすぎません。全ての瞬間は、すでに無限回達成されてきました。「未来」「過去」「現在」は、絶対的のものではなく、事物の総体的歩みの位置でしかありません。

 【関係性と連続】 

 多様に見えるこの世界も、一つの連続した全体的生成だとされています。それらは、相互に連携していました。一つの結合関係は、全ての結合関係の条件となっており、それぞれは、相互の関係性によって、制約されています。その中で、孤立しているものは何もありません。それらは、常に全体として動いているからです。世界の全過程は、正確で間違うことがありません。そのため、世界で起こる出来事は、いつでも同じになります。 

 【権力への意志】

 世界の生成は、一定量の有限な力です。ニーチェは、それを「権力への意志」と名付けました。権力への意志は、物理学のエネルギーのようなものです。その全体は、恒常不変で、減りもしなければ、増えもしませんでした。相互に変換はされても、その全体量は、常に保存されています。権力への意志は、静止することがありません。ニーチェは、権力への意志は、一つの全体であり、世界は、それ以外の何者でもないとしました。世界には、一つの総体的な性格があります。権力への意志は、永遠に渡って、ただ一つのこの世界だけを生成し続けてきました。 

 【運命愛】 

 永劫回帰では、運命が決まっていることになります。何者も、その運命からは、逃れることは出来ません。我々も生成の全連鎖の一つであり、その条件になっているからです。同じ出来事が、無限に繰り返えされているとするならば、そこに救いというものがありません。そのため、永劫回帰は、実に重い思想だとされています。それを告知するのが超人です。超人は、運命が既に決まっているものだとしても、それを愛せよと説きました。それを運命愛と言います。


ニーチェの「ルサンチマン」

2024-03-18 09:59:00 | 西洋哲学

【ルサンチマン】 

 ルサンチマンとは、フランス語で「怨念感情」や「反感」という意味です。ニーチェは、ルサンチマンを社会的弱者が抱く、支配者に対する復讐心だとしました。ルサンチマンは、高貴なものを引きずり下ろそうとします。ニーチェは、それを弱者の復讐心だとました。大多数の人間は、一般大衆であり、社会においては、支配される弱い立場にあります。ニーチェは、ルサンチマンが、その大衆たちの精神世界で、一つの敵対運動として働いたとしました。それは、想像上の復讐にとどまり、実際に行動するわけではないとされています。

 【価値の転倒】 

 ルサンチマンは、一般大衆の中で、創造的となり、価値を生み出すようになりました。人間は、自己保存の本能として、不幸に耐えるための手段を考え出すものです。そこで、これまでの価値観を根本的に転倒しようとしました。ルサンチマンは、高貴なものに対する一種の抵抗だとされています。例えば、古代ローマ時代の支配者は、ローマ人たちでした。ローマ人にとって「善い」とは、強くて優秀なことだったとされています。しかし、大衆が力を持つようになってからは、それが変わってきました。大衆によって、報復しない無力さが「善さ」に、臆病さが「謙虚さ」に変えられたとされています。そうした価値観を持っていたのは「キリスト教徒」でした。また、キリスト教には「同情」「平等」「博愛」と言う価値観もあります。ニーチェは、それを弱者が自分を正当化するために復讐心から生み出したものだとしました。

 【キリスト教】 

 古代ローマ時代、大衆が力をつけた背景には、キリスト教の影響があったとされています。キリスト教とは、もともとユダヤ教から派生したものです。ローマ帝国時代、異民族のユダヤ人たちは、支配される側の人間でした。そのユダヤ人たちが信仰していたのがユダヤ教です。ニーチェは、そのユダヤ人たちが、ある種のルサンチマンを持っていたと考えました。キリスト教では、柔和で善良な弱者だけが、神によって救われると信じられています。しかし、ニーチェは、そうした考え方が、ルサンチマンから生まれたのではないかとしました。キリストでは、神に従う善良で従順な人間が「善い」とされます。しかし、それは支配者側のローマ人に対する反対運動にすぎないとしとしました。

 【奴隷道徳】 

 キリスト教は、一般平民の道徳です。そのため、貴族的ではありません。キリスト教では、人間は、神の前で全て平等だとされています。しかし、現実社会の人間は平等ではありませんでした。その矛盾を解決するために作り出されたのが、精神的なもう一つの世界である「天国」だとされています。キリスト教は、肉体「生命」的なものより、精神的なものを重視しました。そのため、現世に対して否定的だとされています。キリスト教徒は、たとえ、現世では支配されていても、精神の世界では優位に立とうとしました。その精神の世界では、民衆が勝利をおさめたとされています。ニーチェは、それを道徳上の一揆と名づけました。その結果生まれのが、キリスト教や民主主義だとされています。

 また、キリスト教は、きわめて禁欲的です。そのため、人間の本能的な部分に否定的だとされています。ニーチェは、それを反自然的だとしました。そもそも、自然というものは、道徳とは関係がありません。ニーチェは、人間の道徳化というのは、健全な生命に対する病気のようなものだと考えました。