なくもの哲学と歴史ブログ

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バラモンとは何か?

2024-08-23 21:31:00 | インド哲学

【バラモン】
 バラモンは、カースト制度で最上位の階級です。カースト制度には、他に「クシャトリア」「ヴァイシャ」「シュードラ」という階級があります。それぞれ、バラモンが「僧侶」、クシャトリアが「王族」、ヴァイシャが「庶民」シュードラが「奴隷」のことです。バラモンとは、漢訳の「波羅門」の日本語発音なので、正確なサンスクリット語発音ではありません。サンスクリット語では「ブラーフマナ」と言います。「ブラーフマナ」とは「ブラフマンに属する階級」という意味です。ブラフマンとは、不滅の「全一者」のことで、宇宙の全てを司る神とされています。

 バラモンは、世襲制で、純血が尊ばれたので、バラモンの家同士で結婚していました。インドの社会では、バラモンは、最も尊敬されるべき存在とされています。そのため、バラモンを殺すことは、最も大きな不正とされました。そのバラモンを物質的に支えていたのがクシャトリアです。ただし、クシャトリアとバラモンは、相互依存関係にありました。なぜなら、バラモンが、クシャトリアの社会的支配の正当性の根拠を与えていたからです。神話では、バラモンは「プルシャ」の口から生まれたとされています。プルシャとは、原初の巨人のことです。世界は、その巨人を解体して作ったとされています。


【バラモン教】
 バラモン教は、もともとアーリア人によって作られました。そのバラモン教が、民間信仰を取り入れて成立したのが今のヒンドゥー教です。ヒンドゥー教の主神の「シヴァ」「ヴィシュヌ」などは、もともとは非アーリア的な神々だったとされています。そのヒンドゥー、バラモン教の聖職者とされるのがバラモンです。バラモンは、インド社会の精神的な指導者とされています。その主な役割は「祭式」と「学問」をすることです。バラモンの言葉には、呪力があるとされ、その「祭祀」「思考」によって、神々をも動かす力があるとされました。そのため、人間の姿をした神々の神とされています。ちなみに、インドの「弁護士」「教育者」「民族運動の指導者」などは、ほとんどがバラモン階級出身者です。

【聖典】
 バラモンは「ヴェーダ」を究めた者とされています。ヴェーダとは、神から授けられた聖典のことで、その一つが「奥義書」や「秘儀」とされるウパニシャッド哲学です。ウパニシャッド哲学は、自己の内にあるアートマン「個人我」を知り、ブラフマン「宇宙我」と合一することを目的としています。合一するとは、アートマンとブラフマンが、本来同一のものであることを知ることです。それを梵我一如「ぼんがいちにょ」といいます。  

 アートマンとは、他と区別される不変の実体のことです。その存在が、死後に新しい肉体を得るという輪廻転生の根拠となりました。バラモンは、ダルマの「守護者」「体現者」「維持者」とされています。ダルマとは、宇宙の「法」や「秩序」のことです。そこから、社会で守るべき生活規範とされました。その生活規範を細かく規定したものがマヌ法典です。マヌ法典のマヌは、ブラフマーの息子で、世界の父とされています。バラモンには、マヌ法典を正しく伝える責務がありました。マヌ法典には、権利と義務である4つヴァルナ「カースト」が規定されています。その中でも、特に強調されたのがバラモンの特権でした。


インド哲学、ヨーガ学派とは?

2024-08-21 20:22:00 | インド哲学

【ヨーガ学派】
 古代インドで、正統的な六つの哲学体系を「六派哲学」または「正統バラモン哲学」と言います。その六派哲学の一つがヨーガ学派です。ヨーガ学派の開祖は、24世紀頃の「パタニジャリ」という人物で、その根本経典は「ヨーガ、スートラ」です。スートラとは、経典という意味です。ヨーガ学派は「有神サーニキ学派」とも言います。有神サーニキ学派というのは、六派哲学の一つ「サーニキヤ学派」から、哲学説を借用しているからです。サーニキヤ学派は、無神論的とされています。それに対して、ヨーガ学派は、神の存在を認めているので、有神と名付けられました。ヨーガ学派には、仏教の影響、共通性があるとされています。例えば、人間の存在を苦とみることなどです。ヨーガ学派は、サーンキヤ学派の影響で二元論的だとされています。例えば、世界を「見るもの」と「見られるもの」とに分けたからです。

 「見るもの」のことをプルシャ「真我」と言います。プルシャは、サンスクリット語では「私」「霊魂」「自我」「人間」「男性」などという意味です。それは、個人の内側に存在する自分自身の本質のことで「物質的要素」をまったく含まない精神的なものとされています。それに対する物質的な要素が「見られるもの」です。

「見られるもの」は、サンスクリット語で「プラクリティ」と言います。ヨーガ学派では、心と体は、物質的なものにすぎません。そのため、心も物質的なものの一部にすぎないとされています。


【ヨーガ】
 ヨーガとは、知覚などの心の働き「作用」を止滅、または、抑制することです。それを実践することが、ヨーガの目的だとされています。ヨーガという名前の由来は「結合」や「つなぐ」です。もともとは「馬に軛をかけ御する」と言う意味だとされています。そのため、ヨーガには「制御」するという意味もありました。ヨーガは、アーリア以前のインダス文明の時代からあったとされるインド伝統の心身の統一方法です。

 ヨーガは、師から直接指導を受けなくてはいけません。それ故、その準備の出来た人にしか教えられませんでした。ヨーガの目的は、心身の訓練によって、解脱を目指すことです。解脱とは、物質的な束縛からプルシャを独立させ、絶対者と合一することだとされています。そのためには、心の働きを止滅しなくてはいけません。その状態は、波がなくなった静かな水面に例えられます。解脱の時、ヨーガ行者は、生や時間の束縛を離れ「永遠の現在」を生きるとされました。雑念を離れ、意識「心」を一つのものに集中させることを「三昧」と言います。対象を正しくとらえられることが出来るのは、この三昧の状態に入った時です。


【イシュワラ】
 ヨーガ学派では、プルシャは、単一ではありません。そのため、複数存在しています。プルシャは、プラクリティと接触することによって、この世の物質的な制限を受けるとされました。複数存在するプルシャの中で、特別なものとされるが「イシュワラ」です。イシュワラは、一度も物質世界と接触したことがありません。そのため、常に純粋な状態を保っているとされています。イシュワラは、ヨーガ行者が、修行中に祈念する対象であり、世界を創造する最高神のような存在ではありません。それは、全てのヨーガ修行者のグル「先生」だとされています。インドの伝統では「師」のことを「グル」と呼び、その存在は大切にされました。イシュワラを言葉で表したものが聖音「オーム」です。そのオームを復唱することによって、ヨーガ修行の障害が取り除かれるとされています。


柳宗悦の民芸運動

2024-08-14 21:34:00 | 日本の思想

【民芸運動】
 柳宗悦は、日本独自の民芸運動を創設しました。民芸とは、民衆的工芸の略です。通常、我々の目は、習慣的なものの見方に捕われています。そこから、新しい視点を開かせてくれるのが、柳宗悦の民芸運動です。柳宗悦は、今や、創造したり使用する時代が過ぎ去った反省と批判の時代だとしました。民芸運動は、資本主義の時代において、新しいものの見方を示すものだとされています。

 民芸品とは、一般人が日常生活に使っている機能的な暮らしの道具のことです。それは、誰もが持っているようなもので、特別なものではありません。素材も、そこら辺にある頑丈な天然素材から作られたものです。そこには、素朴な美しさがありました。民芸品とは、用「使用すること」のために作られたものです。実際に使うことには、ものを健全にする効果があるとされています。よく使い込むことで、道具には、自然な味が添えられました。そのため、人に奉仕し、働くものにこそ健全な美が宿るとされています。

【職人】
 民芸品は、有名な芸術家の作品ではありません。無名の職人の手仕事によるものでした。その職人によって「繰り返し」同じものが作られたのが民芸品です。その「繰り返し」という作業には、全ての凡人を達人の領域にまで高める力がありました。ただし、同じ人間が作っていないので、全て同じものではありません。

 民芸品の技術は、組合という団体「集団」のものです。その組合内では、常に技術が共有されており、誰かがそれを独占することがありませんでした。また、組合の美「価値基準」というものは、個々の判断より、はるかに大きいものだとされています。

【公共の美】
 民芸品は、無心で作られています。そこに作為はありませんでした。無心で作られたものは、自然に生まれてくるものです。そこには、普遍的な美があるとされています。個人の表現というものは、民芸の目的ではありません。民芸品は、公共の美であり、一時代一民族のものだとされています。また材料には、その地方独自のものを使っていたので「地域性」というものもありました。
 民芸品とは、あらゆる材料を結合させた総合の美です。その総合の美には、自我がありません。それは、仏教の自我を超えた大我のようなものだとされています。民芸には、茶道に通じるものがありました。茶道とは、禅的なものです。柳は、茶道を清貧をむねとする美の宗教だとしました。


【貴族的な品】
 民芸品と相反するのが、豪華で貴族的な高級品です。高級品の美は、故意に作られ、加工させられています。

それらは、意識的に盛られた装飾的な美です。高級品は、あらゆる高度な技術を使って作られています。そのため、個人の分別心による人為的な作品でした。高級品は、市場において、受けるべき以上の高い位置を得ています。そこまで高い地位を得ているのは、国家や金持ちの組織が保護しているからです。そこには、官尊民卑の弊害があるとされています。

 また、資本主義というものは、きわめて商業主義的です。その発展と共に、製品は大量生産され、機械的同質になりました。そうした大量生産品も、民芸品とは、相反するものです。