なくもの哲学と歴史ブログ

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西洋、東洋哲学
世界史、日本史
西洋神話

太平洋戦争、マレー作戦

2024-11-04 06:25:00 | 日本史

【マレー作戦】
 太平洋戦争の開戦時、真珠湾攻撃と同時に行われたのが「マレー作戦」です。マレー作戦は、日本陸軍とイギリス陸軍の、真珠湾攻撃は、日本海軍とアメリカ海軍との戦いでした。日本の陸軍と海軍は、別組織なので、意見が対立することもあったとされています。

 当時の日本は「ABCD包囲網」によって、石油などの物資が入らなくなっていました。ABCDとは「アメリカ」「イギリス」「中国」「オランダ」の頭文字です。日本は、資源不足を解消するため、資源が豊富な東南アジアを占領しようとしました。「占領する」とは、自分たちがそこを使えるようにすることです。そのため、ただ攻撃して破壊するわけではありません。マレー作戦の最終目標は、イギリスの植民地だったシンガポール島を占領することでした。シンガポールは、マレー半島の先端にある島なので、地理的に、海峡監視や補給基地に最適だったとされています。

【シンガポール攻略】
 日本軍は、難攻不落の要塞とされるシンガポールを直接攻撃するのは困難だと考え、マレーシア側から進行することにしました。しかし、マレーシアがあるマレー半島も、250本の河川と鬱蒼たるジャングルに囲まれた天然の要塞とされています。道路も、半島を横断する一本道しかなかったので、そこを進軍するのはきわめて困難でした。当時、イギリスは、マレーシア方面の兵力を増強しており、その数は日本軍の約2倍だったとされています。しかし、そのほとんどが、世界各地のイギリスの植民地から集められた兵でした。彼らは、異なる民族から構成されており、忠誠心がなく、統制もとれていなかったとされています。そうした兵士しか回せなかったのは、イギリスが、ドイツ軍に対して劣勢だったからです。

 日本軍は、イギリス軍の予想を上回るスピードで進撃し、あっという間にシンガポールを占領しました。作戦を指揮していたのは、陸軍中将「山下奉文」という人物です。山下奉文は、勇猛だったので「マレーのトラ」と呼ばれました。マレー作戦の進軍に使われたのが日本製の自転車です。その自転車部隊を「銀輪部隊」と言います。マレーシアの道は、凸凹で、よくパンクしましたが、近くにゴムの原料が豊富にあったので、すぐに補修が出来ました。



【マレー沖開戦】
 イギリス艦隊は、日本軍のマレー半島上陸を阻止しようとしましたが,日本の航空機と戦闘になりました。それをマレー沖海戦と言います。イギリスは、日本の航空機に対する研究が不十分でした。当時は、まだアジアの国の物だと見くびっていたからです。日本軍の「96式陸上攻撃機」と「1式陸上攻撃機」は、ベトナムの「サイゴン基地」と「ツドウム基地」から飛び立ち、イギリス軍の最新式の戦艦「プリンスオブウェールズ」を水平爆撃と魚雷によって沈めました。この出来事は、航行中の戦艦を航空機だけで撃沈したという世界初の事例とされています。このことよって、航空機の優越性が証明されました。当時のイギリス首相「チャーチル」も、戦争中で最も衝撃的な出来事だったとしています。なぜなら、戦艦のような「重武装」「重装甲」の船が沈むはずがないと思われていたからです。日本は、マレー沖海戦の勝利によって、インド洋・太平洋の制海権を獲得しました。制海権とは、安全に物資を運べる権利のことです。



太平洋戦争、ガダルカナル島の戦い

2024-11-03 20:00:00 | 日本史

【ガダルカナル島の戦い】
 それまで連戦連勝だった日本陸軍が、初めて敗北したのがガダルカナル島の戦いでした。ガダルカナル島は、ソロモン諸島にあります。ソロモン諸島では、日本とアメリカとの間で、何度も海戦は行われていましたが、ガダルカナル島の戦いで、初めて本格的な地上戦を行うことになりました。ガダルカナル島は、地理的にアメリカとオーストラリアを結ぶ位置にあったので、軍事的に重要だったとされています。オーストラリアは、アメリカの同盟国だったので、日本は、その連携を断とうとしていました。ガダルカナル島は、何もない島です。しかし、日本とアメリカは、ガダルカナル島の所有権を巡って、何度も死闘を繰り広げました。ガダルカナル島が、東南アジア支配のための拠点として、最適な位置にあったからです。日本は、そこを占領し、飛行場を建設しようと考えました。



【地上戦】

 日本の軍隊で、島などの陸地で戦うのは陸軍です。それまで、日本の陸軍は、米軍の正規兵と戦ったことがありませんでした。主に中国軍や、植民地にいた二級の欧米軍としか戦ったことがなかったからです。その欧米兵たちは、訓練も未熟で、装備も本国のおさがりのようなものでした。一級の兵士たちは、主にヨーロッパで戦っていたからです。そのため、日本軍は、欧米軍を弱いと思い込んでいました。当時、アメリカが、軍事力を割いていたのは、主にヨーロッパ方面です。その割合は、ヨーロッパが7で、東南アジアが3だったとされています。日本軍は、今のうちなら、まだ攻めて来ないので、簡単にガダルカナルを占領出来ると考えていました。しかし、その目論見は、外れてしまいます。アメリカが、ガダルカナル島に送り込んで来たのが、上陸専門の厳しい訓練を受けた「海兵隊」という精鋭たちだったからです。


【餓島】
 アメリカは、一万人もの兵士で、ガダルカナル島を占領しました。それに対する日本軍は、900人だったとされています。日本は、新たに6000人の部隊を派遣し、ガダルカナル島を奪還しようとしました。数の上では、劣勢でしたが、それでも善戦したとされています。日本陸軍の戦法は、銃剣突撃という日露戦争時代のものでした。その戦法は、植民地軍には、有効だったかもしれません。日本軍の銃剣突撃は通用せず、アメリカの機関銃の「十字砲火」の格好の餌食となりました。十字砲火とは、2方面から機関銃を浴びせることです。日本軍は「制海権」「制空権」を取られ、輸送船が攻撃され放題だったので、思うように物資が届けられませんでした。なぜなら、補給というものは、安全が確保されていないと出来ないからです。日本は、仕方なく、夜の闇にまぎれて少しずつ物資を運ぶことにしました。それを「ねずみ輸送」と言います。

 孤立した日本軍は、多くの餓死者を出したので、ガダルカナル島は「餓島」とも呼ばれました。また、マラリアや赤痢などの感染症で、数多くの日本兵が病死したとされています。そうした病気が流行るのは、ガダルカナル島が熱帯地域だったからです。

 日本軍は、精神力では、欧米人を上回っていると自負していました。当初、アメリカの方も、日本兵を恐れていたとされています。そこで、相手を知るため、日本兵の日記を翻訳してみました。そこには、弱音がつづられていたので、日本人も同じ人間だと気づいたとされています。



太平洋戦争、ミッドウェー海戦について

2024-11-03 06:00:00 | 日本史

【ミッドウェー海戦】
 太平洋戦争の転換点となったのが、1942年のミッドウェー海戦です。ミッドウェー海戦までの日本軍は、真珠湾攻撃、マレー沖海戦と連勝を続けていました。ミッドウェーとは、ハワイ近くの米軍基地のある島の名前です。そこを占領出来れば、いつでも、ハワイを攻撃することが可能でした。ハワイには、アメリカの軍事拠点があったとされています。

 日本軍は、アメリカ軍を誘き寄せ、空母を壊滅させようとしました。当時、海上戦の主力となっていたのが空母だったからです。空母には、航空機を運ぶことと海上滑走路としての役割がありました。ミッドウェー海戦は、空母vs空母の戦いだったとされています。日本側が出撃させたのが4隻の空母です。一方、アメリカ側の空母は、ボロボロでしたが、持てる力を全て注ぎ込み、必死の修繕で3隻の空母を出撃させました。ミッドウェー海戦での日本とアメリカの戦力は互角だったとされています。しかし、日本軍は、大敗してしまいました。


【総力戦】
 当時の戦争は、国家の力を総動員させて戦う総力戦でした。それに不可欠だったのが国民たちの協力です。そのため、日本もアメリカも、国民の士気を高めるため、ラジオや新聞で、都合の悪いことは報道せず、戦果だけを誇張して伝えたとされています。アメリカは、国民に対して、戦果を上げているように見せかけるため、機動空襲で、こっそり日本の基地を攻撃し、見つからないように逃げて行きました。それによる日本の実害は、ほとんどなく、アメリカ側も、反撃されなかったとされています。また、アメリカは、精神的なダメージを与えるため、空母で、日本の本土にギリギリまで近づき、陸上用の大型爆撃機で空襲しました。

【敗因】
 日本の敗因は、慢心だっだとされています。アメリカ軍は、日本の戦い方を研究していましたが、日本の方は、今まで通り戦えば勝てると思っていたからです。アメリカは、ミッドウェー海戦以前の珊瑚海海戦を徹底的に分析しました。それに日本の暗号解読は、アメリカに比べて、未熟だったので、情報戦で負けていました。日本側は、暗号をほとんど解読されてしまい、進路や時刻を読まれていたのに、アメリカ軍の動きはつかめていなかったとされています。そのため、アメリカ空母の待ち伏せを受けてしまいました。それが敗北につながったとされています。

【戦いの結果】

 日本の航空機は、ミッドウェーにある基地を攻撃する予定だったので、地上用の爆弾を装備していましたが、そこに現れたのがアメリカ軍の空母部隊でした。船を攻撃するための装備は魚雷です。その魚雷に積み替えるため、命令が二転三転し、日本軍は大混乱に陥りました。そこを狙ったのが、アメリカ航空機の急降下爆撃です。それを数発受けただけ、大火災を引き起こしました。なぜなら、積み替えのため、未整理だった爆弾に引火し、二次的な爆発が起きたからです。結果として、日本軍は「飛竜」「加賀」「蒼龍」「赤城」という4隻の空母と200機の航空機、さらに優秀なパイロットまで失ってたのに、アメリカの損害は、空母ヨークタウだけでした。



室町時代について

2024-05-16 21:36:00 | 日本史

【室町幕府】 

 室町時代とは、だいたい足利氏の幕府が続いた約240年間のことです。そのため足利時代と呼ぶこともあります。室町とは、京都の室町「花の御所」に幕府が置かれたので、そう呼ばれました。いつからいつまでを室町時代とするかには、狭義と広義の説があります。狭義の説は、南北朝時代から戦国時代までで、広義の説は、建武の新政が消滅した時から、足利義昭が信長に追放された時までです。ただし、広義の説の始まりの時期には、二つの説があります。始まりの時期を足利尊氏が建武式目「基本法」を定めた時にするか、征夷大将軍に任命された時にするかです。建武の新政は、天皇中心の政治だったので、武士の不満によって、わずか2年間で崩壊しました。南北朝時代とは、朝廷が、京都の北朝と奈良の南朝とに分かれていた時代です。

 【政治】 

 室町時代、将軍の下には「管領」という役職が置かれました。管領とは、将軍を補佐し、政務全権を統括する最高責任者のことです。足利一族の名門「細川」「斯波」「畠山」氏だけが管領になれました。その3氏を「三管領」と言います。室町幕府の中央機関として「侍所」「政所」「問注所」などが置かれました。それに対し地方に置かれたのが「守護」と「地頭」です。守護の方は、鎌倉時代からありました。もともと守護の権限は、軍事権と警察権だけでしたが、しだいに自国内の武士と主従関係を結ぶようになり、その国を自分の領土としていったとされています。自分の国を守るために武装していったのが、後の守護大名です。守護大名の登場は、戦国時代のきっかけとなりました。

 【産業】 

 室町時代には、商業と農業が発達しました。戦乱から農地を守るために作られたのが「惣」という村の自治組織です。農業では、二毛作が広まりました。二毛作とは、一つの耕地に2種類の作物を栽培することです。その耕地には「桑」「茶」などが栽培されました。室町時代に茶の湯が流行したのは、日本でも茶が栽培されるようになったからです。工業も発展し「陶器」「絹織物」「鍛治」「鋳物」などの職人が誕生しました。同業種の商人たちによって作られたのが「座」という組織です。座は、武士や貴族にお金をおさめることによって、営業の独占的な権利を持つことが出来ました。高利貸しの業務を行ったのが土倉」や「酒屋」などの裕福な商人たちです。

 【日明貿易】 

 三代将軍足利義満は、中国の明から日本国王と認められ、貿易によって大きな利益を得ていました。それを「日明貿易」と言います。日明貿易は、勘合貿易でした。勘合とは、貿易船と船を襲う倭寇「海賊」とを区別するために、発行された証明書のことです。明からは、銅銭や絹を輸入しました。 逆に日本から輸出したものは「刀」「槍」「扇」「硫黄」などです。ただし、義満以降は、中断していた時期もあります。 

 【北山文化と東山文化】

 室町時代初期、1415世紀頃の文化を「北山文化」と言います。足利義満が北山山荘で、展開した文化なので「北山文化」と名づけられました。北山文化は、公家と武家の文化が融合した新しい文化だとされています。大陸文化の影響を受けていたので、豪華で派手な文化でした。北山文化で、最も有名な建築物が金閣寺です。芸術では、義満が能を手厚く保護しました。

 北山文化に対して、東山文化は、簡素で上品な文化です。東山文化は、中国文化の影響を排し、純粋な日本風の文化を目指しました。「わび、さび」などの日本人特有の美意識は、この頃形成されたものです。東山文化が始まったのは、室町中期の8代将軍足利義政の頃からだとされています。義政は、文化的な活動に尽力したことで有名です。東山文化には、禅宗の影響があります。そのため「庭園」「茶の湯」「華道」などが発展しました。東山文化の建築様式を「書院造り」と言います。書院造りは「床の間」「違棚」「ふすま」など、現在の和室の原型となりました。



1980年代の日本

2024-04-02 12:39:00 | 日本史

【日米自動車紛争】 

 戦後の日本は、順調に経済が復興し、1980年代前半には、輸出産業が伸び、大幅な貿易黒字となりました。そこで、引き起こされたのが、アメリカとの貿易摩擦です。日本が、高い技術力で小型の低燃費自動車を生産したので、アメリカは、貿易赤字となりました。アメリカの自動車は、大型の大量排気型モデルだったので「排ガス規制」や「オイルショック」の影響もあり、日本車にシェアを奪われたとされています。米国の消費者が、燃費の良い日本の小型車を求めたので、日本からの輸入が急増しました。日本の自動車の生産量が、アメリカを抜いて世界一となったのもその頃です。一方、アメリカの大手自動車会社は、業績が悪化し、従業員が、リストラに追い込まれました。それに反発して行われたのが、日本車をたたき潰す「ジャパン・バッシング」です。そこでアメリカ政府は、日本車の輸入を制限しましたが、それはアメリカの消費者の利益には反することでした。 

 【プラザ合意】 

 アメリカの貿易赤字の大半は、対日本との貿易によるものです。アメリカ国内では、自国製品の売上が低迷し、景気は悪化しました。その景気を改善するために行われたのが「プラザ合意」です。プラザ合意の狙いは、アメリカの輸出競争力を高め、貿易赤字を削減することでした。日本がこれに合意したのは、アメリカとの関係を良好に保つためです。プラザ合意によって、日本では、円高の影響で輸出が減少し、いったん国内の景気が低迷しました。それに対して、日本銀行が行なったのが低金利政策です。日本の企業は、この低金利を利用し、銀行からお金を借りて土地を買い、その土地を担保にさらにお金を借りて、土地を増やしました。

 【バブル景気】 

 80年代、土地神話は、まだ疑われていませんでした。そのため、過剰な不動産への投資が、バブル景気の始まりだったとされています。工場を作るために必要なのが「土地」です。当時は、工場を作りたい企業が多くあったので、地価がどんどん上がりました。地価の高騰を受けて、盛んになったのが、転売を目的とした土地の売買です。80年代、土地への投資を行う企業や個人が続出しました。なぜなら、土地に投資するだけで利益が得られたからです。彼らは、お金を借りてまで、新しい土地を次々と購入しました。こうした手法でお金儲けることを「財テク」と言います。当時、転売用の土地を確保するための悪質な地上げが横行し、住宅の打ち壊しや、放火などの事件が相次いだことが社会問題となりました。

 【リクルート事件】 

 リクルート事件は、昭和と平成の間の1988年に起きた戦後最大の企業犯罪と呼ばれる贈収賄事件です。この事件で、賄賂として譲渡したものが、現金ではなく、値上確実な未公開株という新しい手法だったので、注目されました。リクルート側の目的は、自社の政界や財界での地位を高めることです。その相手が、有名政治家や官僚だったので、大きな政治、企業的スキャンダルとなりました。この事件は、政治とカネの関係性の在り方を見直すきっかけになったとされています。