なくもの哲学と歴史ブログ

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韓非子と「法家」

2023-08-29 21:32:00 | 中国哲学




【始皇帝】
 韓非子は、もともと韓の王族の公子で、秦の始皇帝に採用されました。ただし、最終的には、投獄されて自殺してしまいます。秦は、韓非子の政策によって「富国強兵」と「法制」が強化されました。富国強兵とは、国の「経済力」と「軍事力」を強化することです。それによって、独裁的な君主による中央集権的な国家が形成されました。秦が、中華全土を支配的に統一することが出来るようになったのは、富国強兵と法制によるものだとされています。

【性悪説と徳治主義】
 韓非子の思想は、性悪説の立場に立っています。性悪説は、もともと儒家の「荀子」の思想です。荀子は、韓非子の師匠格にあたる人物でした。性悪説とは、人間の本性は悪だとする倫理思想です。荀子は、人間というものは、欲望や快楽に流され、悪に走りやすいものだとしました。自分だけの利益を求め、損になることを避けるからです。

 性悪説では、人間は、生まれながらにして悪だとされています。そのため「礼儀」や「道徳」によって縛る必要がありました。道徳や社会規範を重んずるのは、儒家的な思想です。儒家は、君主が徳によって国を治めるべきだとしました。それを「徳治主義」と言います。 徳治主義は、きわめて理想主義的な思想でした。

【法治主義】
 儒家の徳治主義は、戦国時代には通用しませんでした。それに代わる方法として、考え出されたのが韓非子の「法治主義」です。法治主義は、現実主義的な考え方でした。法とは、国家が定める「基準」であり、人々の行為の「規範」です。それは、社会的秩序を保つためには欠かせないものでした。法の運用は、相手によって使い分けられません。君主の下では、家臣はみな平等だったからです。法治主義では、法と道徳は切り離されました。ただし、近代的な法律とは異なります。それは、君主側が、一方的に庶民を拘束するものだったからです。法治主義の下では、厳格な法律「成分法」の執行と、専制的な権力によって国家が統治されました。

【法家】
 法至上主義の人たちを「法家」と呼びます。その法家を大成させたのが韓非子です。法家は、諸子百家の殿「しんがり」だとされています。韓非子は、特に儒家の道徳に対して批判的でした。儒家が、従来の貴族に対して、特権を認めていたからです。法とその運用の仕方を「法術」と言います。法術は、法家の思想の核心となるものでした。それが、国を治めるのに欠かせないものだったからです。

【法術】
 国家を運営する上で、君主が臣下を操縦するための手段を「術」と言います。法術とは、法を使って、臣下をコントロールすることです。その権限は、君主にあります。君主とは、国家機構の頂点にあって、法の運営に努める者のことです。統治をするためには、法を実行するための「強制力」がなくてはいけません。そのために必要だったのが、それを実際に行使できる「権限」です。ちなみに、強制力の基盤となる地位や権力を「勢」と言います。 

 「信賞必罰」という言葉は、韓非子のものです。韓非子は、信賞必罰によって、君主が臣下を操縦するべきだとしました。信賞必罰の賞は「利益」で、罰は「不利益」という意味です。それぞれ、法の基準に照らして、与えられました。







荘子の「真人」

2023-08-27 22:18:00 | 中国哲学



【真人】 

 荘子は、理想的な人格者を「真人」と名づけました。真人は、精神の高みの象徴です。その精神は、鳥のように自由で、人間だけの狭い枠にとらわれず、万物の中で遊んでいます。万物とは、常に変化するものです。真人は、絶えず移り変わる現象世界に固執することがありません。運命随順的に、自然の流れに従って行きます。そのため、わざわざ自然の流れに逆らいませんでした。真人は、自然の本性を理解し、それを体現していきます。その心は、常に平静で、心配ごとがありませんでした。

 【自然と道】 

 真人が模範とするものは、自然の働きです。自然に従う者は、むしろ自然を意識しません。 万物と調和し、その平衡に休息しています。真人とは、自身の存在を一個の自然現象とみなす者です。そのため、生に執着せず、ことさら生命を助長しようとしません。真人は、何ものにもとらわれず、ただ自然の流れに従っているだけです。生だからといって、特別に大事にせず、死だからといって嫌うこともありませんでした。そもそも生死は、一体だと考えているからです。ただ自然の流れと一つになって、その身を終えいきます。そのため、世間から離れいても孤独ではありませんでした。

 真人は、道と完全に一致しています。道とは、必然的なものです。真人は、あるがままの自然の本性に従うので、運命に逆らったりしません。自然とは、自ずからそうなるものです。そこには、目的というものがありません。本来、万物には、対立差別というものがなく、等しく同じものです。荘子は、それを「万物済同」と言いました。

 【現実世界】

 現実世界にあるものは、一時的な借り物です。対立差別は、人間が決めたものにすぎません。物事は、基準があって初めて確定するものです。その基準がなければ、そもそも何も確かではありません。人間的な生活を営むには、社会という環境が必要でした。それを維持するために作られたのがルールです。ルールがあるからこそ、人間は生きていくことが出来ます。しかし、それは、人間の行為を制限し、型にはめるものです。そのため、人間社会のルールに従うことは、自然からは遠ざかってしまいます。 

 【知恵】 

 真人は、分別心を持ちません。何かを無理やり区別する気がないからです。真人は、すべての価値は等しいと知っているので、ことさら善悪の判断をしません。知識とは、自分の正しさを証明するためのものです。そのため、相手と競争になり、時には争いの道具にもなり得ます。なぜなら、知識とは、相手の間違いをはっきりさせるものだからです。

 真人は、知識を必要としないので、博識ではありません。知識とは、考え方を固定化してしまうものです。考え方が固定化されると、自由ではなくなってしまいます。そのため、真人には、固定概念がなく、こだわりがありませんでした。真人の心の中には、知恵が勝手に集まってきて宿ります。真人の知恵というのは、自然に出来上がったものです。それを得るために、あれこれ思慮をめぐらせたものではありません。

 【言葉】 

 真人は、言葉には頼りません。言葉には、限界があるからです。どんな言葉でも、真理を正しく言い表すことは出来ません。本来、すべてのものは等しいものです。それを言葉にしてしまうと等しくなくなってしまいます。言葉とは、むしろ真実を妨げるものです。そのため、真人は、口数が少なく、一見すると愚鈍に見えます。世間で賢いと言われている人のように、相手と議論をしたり、言葉で自分を飾り立てたりすることもありませんでした。