なくもの哲学と歴史ブログ

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西洋、東洋哲学
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西洋神話

漢の初代皇帝「劉邦」

2024-10-15 19:31:00 | 世界史

【劉邦】
 中国を統一し、漢王朝の初代皇帝となったのが劉邦です。劉邦「高祖」の廟号を「太祖」と言います。廟号とは、死んだ後に付けられる名前のことです。劉邦は、普通の農民出身で、まともに読み書きも出来ませんでした。名前の「邦」は、お兄ちゃんを表す言葉だとされています。劉邦は、面長で、鼻が高く、立派な髭をしていました。そのような顔を竜顔と言います。劉邦が、まだ母親のお腹の中にいた時のことです。母親が、龍の夢を見たので、劉邦は、赤龍の子だとされました。赤龍の赤は、漢王朝の色だとされています。

 若い頃の劉邦は、実家の農業を手伝わず、侠客のような生活をしていました。親分肌で、器が広かったので、人望はあったとされています。そのため、なんとなく人が集まってきました。劉邦は、酒と女を好んだとされています。酒屋に行く時は、よく金を持たずに行っていました。それでも、劉邦の周りに人が集まったので、売り上げには貢献したとされています。劉邦は、中年期まで、ろくな官職がなかったのに、大望だけはあったとされています。例えば、始皇帝が巡行してきた時に、あのようになりたいと言ったからです。劉邦には、人の話を聞くという取り柄しかなかったのに自然と超優秀な人材が集まってきました。例えば「韓信」「張良」「陳平」などです。特に張良の助言は、無条件で、よく聞き入れたとされています。

【鴻門の会】

 劉邦は、もともと項羽の元で、反秦活動をしていました。その項羽の主君だったのが楚王「懐王」です。懐王は、最初に関中に入った者を、その地の王にすると言いました。関中とは、秦の首都「咸陽」を中心とした一帯のことです。その関中に一番乗りをしたのが劉邦でした。当時、秦の皇帝だったのが「子嬰」です。子嬰は、劉邦に降伏して、玉璽を差し出しました。劉邦は、宮殿の女と財産に目がくらんだとされています。それでも、関中では、掠奪行為を行わなかったので、民衆には、人気がありました。

 ただし、秦の主力と戦っていた項羽の方です。そのため、劉邦が関中に先に入ったことに怒ったとされています。そこで劉邦は、項羽の叔父の「項伯」を通じて、謝罪することにしました。項伯にそれを頼んだのは、劉邦の軍師「張良」と項伯が義兄弟だったからです。この時、劉邦が、項羽に謝罪に行ったことを「鴻門の会」と言います。項羽の軍師「范増」は、剣舞の席で、劉邦を殺そうとしました。しかし、周りが助けてくれたので、逃げることが出来きたとされています。

【楚漢戦争】


 項羽は、秦を倒し、諸侯を王に任命しました。劉邦が、任されたのが道が険しい辺境の地「巴蜀」です。巴蜀は、西「左」側にあったので、それが「左遷」の語源になったとされています。この頃、劉邦軍に加わったのが、後に漢の大将軍となる韓信です。

 項羽は、主君の懐王を暗殺しました。劉邦が、その反逆者を討つという名目で起こしたのが「楚漢戦争」です。劉邦は、項羽が居ない隙に、本拠地の彭城を56万という大軍で落としました。しかし、劉邦は、油断しきっていたので、すぐに彭城を奪還されてしまいます。この時、劉邦の父と皇后が捕虜となり、自身も子供を馬車から投げ捨ててまで逃亡しました。その子供は、劉邦の側近「夏侯嬰」が拾ったので助かっています。

 劉邦は、戦では項羽に勝てないので、内部分裂工作をすることにしました。そこで、頼りにしたのが策士の陳平です。陳平は、離間の計によって、范増を失脚させました。そのため、項羽は、徐々に孤立していったとされています。劉邦と項羽が、天下を半分に分けることで講和した時、それを破って攻撃するように助言したのも陳平でした。それを陳平とともに進言したのが軍師の張良です。張良は、劉邦が最も信頼していた軍師だとされています。

【垓下の戦い】
 張良の策で、劉邦が項羽を引きつけ間に、韓信の別働隊が北方諸国を平定しました。それを「北伐」と言います。その時、韓信は、占領した国の治安維持のため、斉の正式な王になりたいと言いました。その斉という国は、大国だったとされています。劉邦は、韓信に激怒しましたが、張良と陳平がそれを抑えました。なぜなら、今、韓信を敵に回すと厄介だからです。項羽は、劉邦に一騎打ちを申し込んだことがありました。しかし、劉邦は、それを笑って受けなかったとされています。劉邦と項羽の最後の決戦となったのが「垓下の戦い」です。垓下の戦いで、補給路を断たれた項羽軍は、食料と兵士が減り続けました。それでも、項羽だけは打ち取れなかったとされています。しかし「四面楚歌」状態となった項羽は、観念して自害しました。

【粛正】
 劉邦は、中国を統一して、漢王朝を開きました。その漢王朝の首都となったのが「長安」です。劉邦は、戦後の論功行賞で、蕭何を勲功第一としました。蕭何の功績は、劉邦に食料と兵士を送り続けたことです。劉邦は、その蕭何を「相国」に任命しました。相国とは、漢王朝における最高職です。皇帝となった劉邦は、家臣たちを疑うようになり、特に「韓信」「彭越」「英布」の3人を警戒しました。なぜなら、彼らが、大きな軍事力を持っていたからです。韓信と彭越は、皇后「呂雉」によってとらえられ、謀反の疑いで処刑されました。そのため、呂雉は、中国「三大悪女」の1人に数えられています。英布は、2人の処刑を知り、次は、自分の番だと考え、反乱を起こしましたが、劉邦に打ち取られました。



西楚覇王、項羽

2024-10-11 19:28:00 | 世界史

【項羽】
 項羽は「西楚の覇王」と呼ばれています。その一族は、楚の将軍職を務める家柄でした。楚は、春秋戦国時代において、秦に次ぐ大国だったとされています。世間では、秦を滅ぼすとしたら、楚の人だと言われていました。秦を苦しめた楚の将軍「項燕」は、項羽の祖父だとされています。項羽は、父親がいなかったので、叔父の項梁によって養育されました。項梁から、武術や学問を習いましたが、あまり熱心ではなかったとされています。なぜなら、文字などは、自分の名前をかければよく、剣では、1人しか倒せないと思ったからです。そこで、万人を相手にする方法として、兵法を習いたいと言いました。

 項羽には、楚への強い愛国心があったとされています。そのため、秦に対する復讐心が、人一倍ありました。始皇帝が、巡行してきた時、それにとって代わってやると言ったとされています。巡行とは、皇帝が、全国を巡回することです。

【性格と戦術】
 項羽は、直情的で、短気でしたが、謙虚な面もありました。例えば、叔父の項伯や、軍師の范増の意見をよく聞いたからです。項羽は、正義感が強かったので、若者には人気があったとされています。ただし、プライドが高く傲慢でした。そのため、人望はなかったとされています。また、部下の扱いも不公正だったので、不満を持つものも多くいました。項羽は、体が大きく、力が強かったとされています。戦場では、一騎当千の活躍で、常に敵の数が多い状況でも勝ってきました。項羽は、戦で一度も敗れたことがなかったとされています。そのため、中国史上、最強の武将と呼ばれました。項羽は、野戦が得意で、戦い方は、あまり策に頼らず、勢に任せたものだったとされています。戦術にも計画性がなく、長期戦は苦手でした。

【鴻門の会】
 項羽は、秦に対する反乱「陳勝呉広の乱」に参加しました。陳勝呉広の乱とは、中国最初の農民反乱のことです。項梁には、人望があったので、反秦勢力が集まってきました。それが、一大勢力になったとされています。項梁は、楚の王族を探し出し「懐王」として立てました。当時の秦の正規兵は、強かったとされています。そのため、項梁は、秦の名将「章邯」との戦いで戦死しました。その後も、項羽は、楚の将軍として戦います。懐王は、最初に関中に入った者を関中王にすると言いました。関中とは、秦の首都「咸陽」一帯のことです。1番先に関中に入ったのは劉邦でした。その劉邦は、関中で掠奪を行わなかったので、民衆には人気があったとされています。しかし、項羽は、劉邦に怒りました。なぜなら、秦の主力と戦っていたのは、項羽の方であり、関中王になるのは自分だと思っていたからです。

 劉邦の軍師「張良」と、項羽の叔父項伯は、義兄弟だったので、劉邦は、その項伯を通じ、項羽に謝罪することにしました。それを「鴻門の会」と言います。項羽の軍師「范増」は、剣舞の席で、劉邦を殺そうとしました。しかし、劉邦の家臣「樊噲」が乱入してきたので、劉邦は逃れることが出来たとされています。

 咸陽に入った項羽は、阿房宮を焼き、秦の皇帝「子嬰」を殺しました。子嬰は、宦官の趙高を討ったので、民衆に人気があったとされています。なぜなら、趙高が秦の悪政の原因だとされていたからです。このことで、項羽の評判は悪くなりました。

【楚漢戦争】

 項羽は、秦を三年で滅ぼし、功績のあった者を各地の王に任命しました。その中で、劉邦が任じられたのが西「左」にある巴蜀の地「漢」です。この事が「左遷」の語源だとされています。項羽は「西楚の覇王」を名乗り、楚の「彭城」を本拠地としました。この時、まだ項羽の主君として存在していたのが懐王です。項羽は、その懐王を暗殺しました。それを知った劉邦が、主君殺しを討つという名目で起こしたのが「楚漢戦争」です。

 劉邦は、項羽が留守の時、56万の大軍で彭城を占領しましたが、油断したため、すぐに奪還されています。この時、劉邦の妻と父は、捕虜となり、自身も馬車に乗っていた子供を投げ捨ててまで、必死に逃亡しました。ちなみに、その子供は、夏侯嬰という劉邦の側近が拾い上げています。

【垓下の戦い】

 劉邦は、項羽に対して連戦連敗でした。それでも、軍を立て直せたのは、側近の蕭何が兵糧と兵士を送り続けていたからです。劉邦は、まともに戦っても項羽には勝てないので、策謀に長けた陳平の内部分裂工作で、范増を失脚させました。劉邦が、最も信頼したのが軍師の張良です。その張良の策で、劉邦が項羽を引きつけている間に、韓信の別働隊が諸国を平定しました。そのため、韓信が、一時的に第三勢力になったとされています。項羽は、その韓信に同盟を持ちかけました。しかし、韓信は、それを断ったとされています。なぜなら、劉邦に恩義を感じていたからです。

 項羽軍は、補給路を断たれ、兵糧がなくなり、兵士の数も減り続けていました。楚漢戦争、最後の戦いとなったのが「垓下の戦い」です。韓信に追い詰められた項羽軍は、28騎まで減りました。それでも、項羽だけは、どうしても打ち取れなかったとされています。劉邦は、項羽を取り囲んで、夜中に楚の歌を歌わせました。それを「四面楚歌」と言います。それを聞いた項羽は、楚の人たちが劉邦側についたと思ったとされています。観念した項羽は「天が私を滅ぼす」のだとして、寵愛していた「虞美人」とともに自害しました。



楚漢戦争、韓信について

2024-10-06 20:04:00 | 世界史

【韓信】
 韓信は、漢の「三傑」の一人に数えられています。三傑とは、劉邦の漢建国に貢献した三人の立役者のことです。韓信は、楚の平民の出身で、貧しかったのに働かずに人の世話になっていました。それなのに体格だけは良かったとされています。韓信は、貧しいのに、長剣をぶら下げていたので、それを肉屋にからかわれ、自分の股をくぐるか、その剣で切りつけてみるかと挑発されました。しかし、出世をするという目標があったので、人殺しにならないように、その肉屋の股をくぐったとされています。そのことで、韓信には、臆病者という評判がつきました。このエピソードを「韓信の股潜り」や「韓信匍匐」と言います。

【項羽と劉邦】
 韓信は、秦に対する反乱「陳勝呉広の乱」に参加しました。陳勝呉広の乱は、中国最初の農民反乱だとされています。韓信は、はじめ項羽の部下として、参戦しました。当時、項羽は、反秦勢力の筆頭だったとされています。韓信は、項羽に献策を続けましたが、採用されることはありませんでした。なぜなら、項羽には、最も信頼する軍師「范増」がいたからです。この頃から、范増は、韓信を警戒していたとされています。

 韓信は、項羽を身限り、劉邦軍に加わることにしました。ただし、劉邦軍では、一兵卒からだったとされています。韓信が、ある罪で処刑されそうになった時、それを助けてくれたのが夏侯嬰という人物でした。ちなみに、韓信は、自分こそが劉邦の天下取りに必要な人物だと思っていたとされています。そのため、夏侯嬰に自分を殺せば、漢の損失なるだろうと言いました。夏侯嬰は、その話に興味を持ったとされています。その後、韓信は、劉邦の側近である「蕭何」からも、その才能を認められました。この蕭何も三傑の1人とされています。韓信は、劉邦から、接待役という役目を与えられましたが、それが不満で逃亡しました。それを追いかけて、連れ戻したのが蕭何だとされています。その時、蕭何は、韓信が「国士無双」だから、わざわざ追いかけたと説明しました。国士無双とは、比べられる者がないほど優れた者という意味です。韓信は、夏侯嬰と蕭何の推薦によって、大将軍に任命されました。大将軍という官職は、上将軍とも言います。

【知将】
 韓信は、特に戦術にすぐれていたとされています。趙との決戦では「背水の陣」という戦術を使いました。背水の陣とは、退却できないようにして必死に戦うことです。趙軍側の軍師は「李左車」という人物でした。李左車は、かつて秦軍を苦しめた趙の名将「李牧」の孫だとされています。韓信は、李左車を生け取りにし、敬意を払って、教えを乞いました。その時、李左車は「敗軍の将は語らず」と言ったとされています。

 項羽は、秦を滅ぼしましたが、今度は、劉邦と対立することになりました。その戦いを楚漢戦争と言います。韓信は、劉邦の別働部隊として「趙」「魏」「燕」「斉」などの諸国を平定しました。その中で大国だったのが斉です。韓信は、治安維持のため、斉の仮の王になりたいと言いました。しかし、劉邦は、それに怒ったとされています。それを軍師の張良と陳平が諌めました。なぜなら、韓信を敵に回すと不利になるからです。そこで劉邦は、仮ではなく真の王になれと言いました。その結果、韓信が、第三勢力のような形になったとされています。項羽は、その韓信に和議を持ちかけました。しかし、劉邦に恩義があるとして、それを断たとされています。韓信は「垓下の戦い」で、項羽を追い詰め、自害に追い込みました。この垓下の戦いから生まれたのが四面楚歌という四字熟語です。

【粛正】
 劉邦が、中国を統一して、漢王朝を開いた時、韓信は、斉ではなく、故郷の楚の王に任じられました。帰郷した韓信は、お世話になった人たちに恩返しをしたとされています。韓信が、謀反人となった旧友を匿った時のことです。その罰として、精鋭を取り上げられてしまいました。その上、身柄を拘束されたので、このままでは、自分の身も危ういと思ったとされています。韓信は、劉邦が首都「長安」を留守にした瞬間を見計らって、皇后「呂雉」と皇太子を監禁しようとしました。しかし、韓信に恨みを持った人間が、それを呂雉に密告したので、計画が事前にバレてしまいます。呂雉は、そのことを蕭何に相談しました。ちなみに、韓信は、蕭何だけは信用していたとされています。蕭何は、それを利用して、韓信をうまく誘い出し捕えました。韓信は、その一族諸共、呂雉に処刑されたとされています。



インド哲学、ブラフマンとは何か?

2024-10-02 12:30:00 | インド哲学

【ブラフマン】

 ブラフマンは、宇宙の根本原理を神格化した神です。そのため、ヒンドゥー教では、最高神の1人とされています。ただし、漠然とした神様だったので、インドや日本では、民衆に広まりませんでした。そのブラフマンと同一視されるのが、原人プルシャです。プルシャは、自分の体の各部位から、世界を創造したとされています。

ブラフマンも、万物そのものが身体です、もともとは、たった1人で存在していました。それでも自分自身には満足していたとされています。ある時「梵卵」と呼ばれる卵を二分割しました。それが、天と地に分れたとされています。ブラフマンは、唯一無二の実在です。そのため、全てのものは、ブラフマンだとされました。また、ブラフマンは、宇宙の「創造者」「破壊者」「保存者」だともされています。



【創造者】

 ブラフマンは、宇宙の魂のような存在で、呪力ある言葉で、万物を創造するとされています。思考だけで、物事を顕現させるので、労働のようなことはしません。ブラフマンは、生成することを本質としているので、外からいかなる力を借りなくても、さまざまに形を変化させることが出来ました。目覚めている時は、世界を新しく展開させ、眠りにつく時は、それがいったん終るとされています。

 ブラフマンには、始めと終わりがありません。それは、常に存在しており、何かから、生まれたことがなく、無くなることもないとされています。インドの世界観では、一方通行的な時間というものがありません。時間というものは、終わりのない、無限の循環の繰り返しだとされているからです。便宜上、使うとしても、それは仮のものにすぎません。全てのものは、ブラフマンに吸い込まれ、その中に消えるとされています。ブラフマンは、唯一のものなので、分割することが出来ません。分割されないものは、他と区別されないので、個性というものがないとされています。

【ダルマ】

 ブラフマンは「ダルマ」を定めました。一般的に、ダルマとは、守るべき正しい道のことです。それ以外にも「法」「秩序」「現象」などの多様な意味があります。この世界が安定しているのは、ダルマが、諸物を適所に配分しているからです。それは、人間社会も例外ではありません。ブラフマンは、人間社会に四つの階級「四身分」を制定しました。四身分とは、司祭「バラモン」、武士「クシャトリヤ」、庶民「ヴァイシャ」、隷属民「シュードラ」のことです。その中で、バラモンが最高位とされました。バラモンとは「ブラフマンと合一した人」という意味です。通常、瞑想することによって、心がブラフマンになるとされています。その者は、全てを獲得し、天界に常駐するとされました。


【梵天】

 ブラフマンの漢訳が、仏教の「梵天」です。梵天「ぼんてん」の「天」は、天部に属していることを意味しています。天部とは、仏法を守護する「神々」のことです。梵天は、仏教に取り入れられて「12天」の1人とされました。「12天」とは「方位」「天地」「太陽」「月」の守護神のことです。その中で、梵天は「天」の守護神とされました。その住居は、須弥山の「大梵天」で、天部の中では、最高位の存在とされています。それと同格とされるのが、神々の王「帝釈天」です。帝釈天と梵天は、一対で「梵釈」と呼ばれています。物語で、梵天が登場するのが、梵天勧請「ぼんてんかんじょう」という仏教の逸話です。梵天勧請では、梵天が、悟りを開いた釈迦にその教えを広めることを勧めたとされています。

 仏像の梵天は、2本の腕に一つの顔という普通の人間のような容姿です。通常、宝冠を被り、中国風の衣装を着て「払子」「鏡」「香炉」などを持っています。ただし、密教の梵天は、四面四臂とインド的です。その梵天が、乗り物としているのが「ハンサ」と呼ばれる4羽の白い鵞鳥です。「ハンサ」は、神の知恵の象徴とされています。