なくもの哲学と歴史ブログ

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西洋、東洋哲学
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荘子の万物済同

2024-11-05 09:11:00 | 中国哲学

【万物済同】 

 万物済同とは、もともと自然には区別などなく、すべての価値は等しいという意味です。しかし、現実の世界には区別があります。人間の側が、世界を理解するため、仮に区別しているからです。事物は、それぞれ名づけられ、区別されているにすぎません。人間は、それぞれの事物を、言葉によって、区別しています。しかし、本来、世界は一つものであり、そこに区別などはなかったはずです。事物は、それぞれ違うように見えますが、もともと全て同じもののはずです。人間は、それらが、別々のものであるという慣習思考にとらわれた状態にあります。

【自然と道】 

 自然の営みは、完全無欠であり、作為をしなくても全てを成し遂げてくれます。意図的に何かをしようとしなくても、既に完成しているからです。作為をしないことを「無為」と言います。本来、自然は、時間によっても区切られていません。時間とは、あくまで、人間が便宜上、区別してるにすぎないからです。それは、連続する一つのものとして、その過程は決まっているとされています。

 荘子は、自然の流れを、いわば一つの音楽のようなものだとしました。その音楽には、始めと終わりがなく、その曲は、常に同じものだとされています。またすべての現象が起こる原因は、道の働きだとしました。道とは、万物に共通している造化の根本原理のことです。その働きは、永遠に狂いがありません。道は、万物に行き渡っています。それは、ずっと昔から存在しているのに少しも古くなりません。なぜなら、それ自身の本性に従い、絶え間なく活動し続けているからです。それは、常に入れ替わる永遠の循環運動だとされています。

 【気と生死】 

 荘子は、生も死も、同じ連続の中にある不可分のものだとしました。それらは、相反するものではなく、むしろ依存関係にあります。生と死の違いは、気の集散にすぎません。荘子は、この世界は、ただ一つの「気」だとしました。気とは、自然界に充満する、活動的なエネルギーのことです。この気は、無くなることがなく、万物の一切を成り立たせているとされています。すべてのものは、気の変化の一形式に過ぎません。死は、自然の変化にすぎず、むしろ生の始まりとされています。気が集まって人間となり、気が分散されて死ぬからです。死は、肉体という束縛から自由にしてくれる休息のようなものされています。生も、何か特別なものではなく、一個の自然現象にすぎません。人間は、生命という仮の姿をとって、ただ自然の流れによって尽きていくとされています。


【忘我】 

 本来、すべての事象は、自他の区別のない、ただ一つだけの出来事だとされています。荘子は、我を忘れ、主客が一体となった境地を「胡蝶の夢」と言いました。万物とは、一つの夢のようなものだからです。我を忘れれば、自分が蝶になった夢を見ているのか、蝶が人間になった夢を見ているのかの区別がつかなくなります。常に自他の区別をしているのは、人間の方だからです。荘子は、自然と人間が一体となった境地を「遊ぶ」と表現しました。自然と遊ぶ者は、もはや変化するものに固執しないとされています。



太平洋戦争、マレー作戦

2024-11-04 06:25:00 | 日本史

【マレー作戦】
 太平洋戦争の開戦時、真珠湾攻撃と同時に行われたのが「マレー作戦」です。マレー作戦は、日本陸軍とイギリス陸軍の、真珠湾攻撃は、日本海軍とアメリカ海軍との戦いでした。日本の陸軍と海軍は、別組織なので、意見が対立することもあったとされています。

 当時の日本は「ABCD包囲網」によって、石油などの物資が入らなくなっていました。ABCDとは「アメリカ」「イギリス」「中国」「オランダ」の頭文字です。日本は、資源不足を解消するため、資源が豊富な東南アジアを占領しようとしました。「占領する」とは、自分たちがそこを使えるようにすることです。そのため、ただ攻撃して破壊するわけではありません。マレー作戦の最終目標は、イギリスの植民地だったシンガポール島を占領することでした。シンガポールは、マレー半島の先端にある島なので、地理的に、海峡監視や補給基地に最適だったとされています。

【シンガポール攻略】
 日本軍は、難攻不落の要塞とされるシンガポールを直接攻撃するのは困難だと考え、マレーシア側から進行することにしました。しかし、マレーシアがあるマレー半島も、250本の河川と鬱蒼たるジャングルに囲まれた天然の要塞とされています。道路も、半島を横断する一本道しかなかったので、そこを進軍するのはきわめて困難でした。当時、イギリスは、マレーシア方面の兵力を増強しており、その数は日本軍の約2倍だったとされています。しかし、そのほとんどが、世界各地のイギリスの植民地から集められた兵でした。彼らは、異なる民族から構成されており、忠誠心がなく、統制もとれていなかったとされています。そうした兵士しか回せなかったのは、イギリスが、ドイツ軍に対して劣勢だったからです。

 日本軍は、イギリス軍の予想を上回るスピードで進撃し、あっという間にシンガポールを占領しました。作戦を指揮していたのは、陸軍中将「山下奉文」という人物です。山下奉文は、勇猛だったので「マレーのトラ」と呼ばれました。マレー作戦の進軍に使われたのが日本製の自転車です。その自転車部隊を「銀輪部隊」と言います。マレーシアの道は、凸凹で、よくパンクしましたが、近くにゴムの原料が豊富にあったので、すぐに補修が出来ました。



【マレー沖開戦】
 イギリス艦隊は、日本軍のマレー半島上陸を阻止しようとしましたが,日本の航空機と戦闘になりました。それをマレー沖海戦と言います。イギリスは、日本の航空機に対する研究が不十分でした。当時は、まだアジアの国の物だと見くびっていたからです。日本軍の「96式陸上攻撃機」と「1式陸上攻撃機」は、ベトナムの「サイゴン基地」と「ツドウム基地」から飛び立ち、イギリス軍の最新式の戦艦「プリンスオブウェールズ」を水平爆撃と魚雷によって沈めました。この出来事は、航行中の戦艦を航空機だけで撃沈したという世界初の事例とされています。このことよって、航空機の優越性が証明されました。当時のイギリス首相「チャーチル」も、戦争中で最も衝撃的な出来事だったとしています。なぜなら、戦艦のような「重武装」「重装甲」の船が沈むはずがないと思われていたからです。日本は、マレー沖海戦の勝利によって、インド洋・太平洋の制海権を獲得しました。制海権とは、安全に物資を運べる権利のことです。



太平洋戦争、ガダルカナル島の戦い

2024-11-03 20:00:00 | 日本史

【ガダルカナル島の戦い】
 それまで連戦連勝だった日本陸軍が、初めて敗北したのがガダルカナル島の戦いでした。ガダルカナル島は、ソロモン諸島にあります。ソロモン諸島では、日本とアメリカとの間で、何度も海戦は行われていましたが、ガダルカナル島の戦いで、初めて本格的な地上戦を行うことになりました。ガダルカナル島は、地理的にアメリカとオーストラリアを結ぶ位置にあったので、軍事的に重要だったとされています。オーストラリアは、アメリカの同盟国だったので、日本は、その連携を断とうとしていました。ガダルカナル島は、何もない島です。しかし、日本とアメリカは、ガダルカナル島の所有権を巡って、何度も死闘を繰り広げました。ガダルカナル島が、東南アジア支配のための拠点として、最適な位置にあったからです。日本は、そこを占領し、飛行場を建設しようと考えました。



【地上戦】

 日本の軍隊で、島などの陸地で戦うのは陸軍です。それまで、日本の陸軍は、米軍の正規兵と戦ったことがありませんでした。主に中国軍や、植民地にいた二級の欧米軍としか戦ったことがなかったからです。その欧米兵たちは、訓練も未熟で、装備も本国のおさがりのようなものでした。一級の兵士たちは、主にヨーロッパで戦っていたからです。そのため、日本軍は、欧米軍を弱いと思い込んでいました。当時、アメリカが、軍事力を割いていたのは、主にヨーロッパ方面です。その割合は、ヨーロッパが7で、東南アジアが3だったとされています。日本軍は、今のうちなら、まだ攻めて来ないので、簡単にガダルカナルを占領出来ると考えていました。しかし、その目論見は、外れてしまいます。アメリカが、ガダルカナル島に送り込んで来たのが、上陸専門の厳しい訓練を受けた「海兵隊」という精鋭たちだったからです。


【餓島】
 アメリカは、一万人もの兵士で、ガダルカナル島を占領しました。それに対する日本軍は、900人だったとされています。日本は、新たに6000人の部隊を派遣し、ガダルカナル島を奪還しようとしました。数の上では、劣勢でしたが、それでも善戦したとされています。日本陸軍の戦法は、銃剣突撃という日露戦争時代のものでした。その戦法は、植民地軍には、有効だったかもしれません。日本軍の銃剣突撃は通用せず、アメリカの機関銃の「十字砲火」の格好の餌食となりました。十字砲火とは、2方面から機関銃を浴びせることです。日本軍は「制海権」「制空権」を取られ、輸送船が攻撃され放題だったので、思うように物資が届けられませんでした。なぜなら、補給というものは、安全が確保されていないと出来ないからです。日本は、仕方なく、夜の闇にまぎれて少しずつ物資を運ぶことにしました。それを「ねずみ輸送」と言います。

 孤立した日本軍は、多くの餓死者を出したので、ガダルカナル島は「餓島」とも呼ばれました。また、マラリアや赤痢などの感染症で、数多くの日本兵が病死したとされています。そうした病気が流行るのは、ガダルカナル島が熱帯地域だったからです。

 日本軍は、精神力では、欧米人を上回っていると自負していました。当初、アメリカの方も、日本兵を恐れていたとされています。そこで、相手を知るため、日本兵の日記を翻訳してみました。そこには、弱音がつづられていたので、日本人も同じ人間だと気づいたとされています。



太平洋戦争、ミッドウェー海戦について

2024-11-03 06:00:00 | 日本史

【ミッドウェー海戦】
 太平洋戦争の転換点となったのが、1942年のミッドウェー海戦です。ミッドウェー海戦までの日本軍は、真珠湾攻撃、マレー沖海戦と連勝を続けていました。ミッドウェーとは、ハワイ近くの米軍基地のある島の名前です。そこを占領出来れば、いつでも、ハワイを攻撃することが可能でした。ハワイには、アメリカの軍事拠点があったとされています。

 日本軍は、アメリカ軍を誘き寄せ、空母を壊滅させようとしました。当時、海上戦の主力となっていたのが空母だったからです。空母には、航空機を運ぶことと海上滑走路としての役割がありました。ミッドウェー海戦は、空母vs空母の戦いだったとされています。日本側が出撃させたのが4隻の空母です。一方、アメリカ側の空母は、ボロボロでしたが、持てる力を全て注ぎ込み、必死の修繕で3隻の空母を出撃させました。ミッドウェー海戦での日本とアメリカの戦力は互角だったとされています。しかし、日本軍は、大敗してしまいました。


【総力戦】
 当時の戦争は、国家の力を総動員させて戦う総力戦でした。それに不可欠だったのが国民たちの協力です。そのため、日本もアメリカも、国民の士気を高めるため、ラジオや新聞で、都合の悪いことは報道せず、戦果だけを誇張して伝えたとされています。アメリカは、国民に対して、戦果を上げているように見せかけるため、機動空襲で、こっそり日本の基地を攻撃し、見つからないように逃げて行きました。それによる日本の実害は、ほとんどなく、アメリカ側も、反撃されなかったとされています。また、アメリカは、精神的なダメージを与えるため、空母で、日本の本土にギリギリまで近づき、陸上用の大型爆撃機で空襲しました。

【敗因】
 日本の敗因は、慢心だっだとされています。アメリカ軍は、日本の戦い方を研究していましたが、日本の方は、今まで通り戦えば勝てると思っていたからです。アメリカは、ミッドウェー海戦以前の珊瑚海海戦を徹底的に分析しました。それに日本の暗号解読は、アメリカに比べて、未熟だったので、情報戦で負けていました。日本側は、暗号をほとんど解読されてしまい、進路や時刻を読まれていたのに、アメリカ軍の動きはつかめていなかったとされています。そのため、アメリカ空母の待ち伏せを受けてしまいました。それが敗北につながったとされています。

【戦いの結果】

 日本の航空機は、ミッドウェーにある基地を攻撃する予定だったので、地上用の爆弾を装備していましたが、そこに現れたのがアメリカ軍の空母部隊でした。船を攻撃するための装備は魚雷です。その魚雷に積み替えるため、命令が二転三転し、日本軍は大混乱に陥りました。そこを狙ったのが、アメリカ航空機の急降下爆撃です。それを数発受けただけ、大火災を引き起こしました。なぜなら、積み替えのため、未整理だった爆弾に引火し、二次的な爆発が起きたからです。結果として、日本軍は「飛竜」「加賀」「蒼龍」「赤城」という4隻の空母と200機の航空機、さらに優秀なパイロットまで失ってたのに、アメリカの損害は、空母ヨークタウだけでした。